この映画には確かに中毒性がある!何がこんなに中毒性を産んでいるのか?
まずもって、ポップなセンスが鮮烈な美術とその色使い。衣装や消え物のスイーツなども眼に眩しい映像効果、村上隆さんの作品を見るように…何だかトランス状態に陥ったような気にさせられる。資金と発想豊かな米国のテレビドラマによく見るテイストではあるんだけど、それが単なる外連味だけでなく、演出意図を持って周到に仕込まれているから、脳裏にこびりつくのだろう。もう一回あの色彩を浴びてみたい、という気にさせられる。それが一つ。
で、何より主人公・キャシーが夜な夜な繰り返す行動そのものだ。酒場に一人で出掛け、酔ったふりをして“お持ち帰り”され、いざという段になって「あんた何しようとしてんの⁈」と正体をあらわにして、男共にお仕置きを下す。そんな事を中毒のように繰り返し、手帳にその数をカウントして行くのだ。見ているこちらも、次はどんな男を?どんな風に?とその都度期待をしてしまう。この二つの意味での中毒性も見て取れた。
さて、主人公・キャシーの中毒性は、ある男子同級生との再会によっていきなりそのフェーズが変わる。心に秘めていた復讐を現実に起こす決意に至ることになるのだが…それは学生当時、大親友の女子生徒を死に追いやる不埒を働いた男と、その男の行為を見ぬふりをした関係者たちへの復讐。キャシーは周到に準備していたかのように恙なく五つの復讐劇を重ねて行くのだ。もうね、ポップでキュートな雰囲気の下にこんなドロドロとしたベースのドラマを描くとは。斬新。
この女生徒が男に弄ばれたことへの復讐劇を持ってして、「女性を搾取するシステムと戦うフェミニズム映画」とか「彼女の復讐対象はホモソーシャル社会のひずみそのもの」とか、社会的なメッセージを汲み上げて評とするのを見かけるが、それは何とも的外れなような気がするのだね。
ここで描かれているのは見ての通り、失った親友の尊厳を知らしめる一人の個人的な復讐譚である。
プロダクションノートにもある。
「女性が強いられる日常的な屈辱への怒りや、切々たる抗議を込めようとは思わなかった」
「解くべきしがらみの、その一端を私たちがどう担っているかについて考えました」
だからこそ彼女は復讐を胸に秘めながら“お持ち帰り懲らしめ劇”を繰り返し精神のバランスを何とか取っているのだ。
件のポップでキュートな部屋の装飾や少女趣味の服装なども、ともすれば崩れかねない精神を支えるためのバランスなのだと解釈すると、何とも痛ましい。両親の接し方、とりわけ父親の眼差しも!(父親役クランシー・ブラウンの感動的な名演を是非!)
つらつらと書いたが、もう問答無用にキャリー・マリガンが素晴らしい!彼女の演技も中毒性を孕んでいるよ。
 
最後にもう一つ。この映画がフェミニズム映画だったら、監督のエメラルド・フェネルはこんな結末にしなかったはずでしょうよ。