日本版のポスターも、アメリカの女子高生が途方に暮れて寄り添う雰囲気が切ないですが、海外版の方は、主人公を演じるシドニー・フラニガンのなんだか自分の中の聖的なものと葛藤している視線というのを感じました。妊娠中絶がテーマだけに本編を見終わった後、更にそんなことを感じる訳です。
日本版のポスターにはたくさんの冠がついております。中でも一番はベルリン国際映画祭銀熊賞・審査員大賞ですね。
数々の冠の中で目を引くのが脚本賞と俳優への賞。寡黙でシンプルな台詞と構成に俳優陣の切実な演技が応えます。とは言え、そこに至るまでをしっかりと調べ準備し練り上げた演出力と、作品を世に送り出す信念に拍手を贈りたいですね。
話は、17歳で孕ったオータムが故郷ペンシルベニアで許されていない中絶をする為にNYに向かう、その道中譚。そういうシンプルなもの。シンプルだけに深い。
インタビューでエリザ・ヒットマン監督も「映画が信頼できるものであってほしい。主人公のリアクションに対し、見る人たちも自ら選択するような感覚を持ってもらいたかった。」そう仰っています。もちろん監督も作品は『#MeToo運動』とも繋がるものだとしていますが…これを未成年の妊娠中絶に対する啓蒙作品だと捉えてしまうと一面的ですねぇ。監督は「映画が信頼できるものであってほしい。」と言っています。そこは、観る人色んな人生の考える“よすが”となって欲しいという意思だと解釈したい。そう言う主旨を解き明かすことができる場面が随所にあるわけですから。
例えば、主人公オータムを孕らせた相手の男はこの映画には出て来ない。それによって誰が悪いのかどっちが悪いのかと言った過失元の糾弾よりも、オータムの先々にどんな道があり得るのか、観客は色んな可能性を考え巡らせる事になるからですね。
他にも、NYの病院でカウンセリングに質問に答える場面があります。これまでの男性経験数。初めての年齢。今年に入っての経験人数。
聞くと女性側も戒められるほどの数字が並びます。さて…作品の初めの方に出てきた継父の太々しい態度が思い起こされて、この数字の中に彼が入ってないと言い切れるだろうか?いや待て、そもそも母親を含め家庭環境は…⁉︎
そんな疑心暗鬼になる一方、NYでお金が尽きた主人公ら二人に長距離バスで出会った洒落男が事も無げにお金を差し出します。その為に従姉妹のスカイラーが唇を許してはいますが、彼の気持ちに純愛がないとは言い切れないのでは…⁇
彼女を取り巻く関係や選択には、色んな考えるよすががあります。実に分厚い映画だなぁと感じ入る訳です。
件のNYでのカウンセリングの場面。他にも性交渉の強要や犯罪性の有無など質問が続きます。
原題の“ Never Rarely Sometimes Always”は、その回答の選択肢なんですね。冒頭に話したシンプルは台詞の象徴とも言える言葉の羅列。これで答えるオータムとカウンセラーのこのシーンが胸を打ちます。因みにカウンセラーはホンモノだそうです。