空が白々と明け始める午前4時半、自然と目が覚めた。
テントから空模様を窺うと、キャンプ場の木立に囲まれた狭い空には雲一つ見当たらなかった。
しかし、台風と旺盛な太平洋高気圧のせいで、南風が暖かい空気を運んできて、この季節には有り得ないぐらいに暖かい夜だった。
太平洋から十勝平野上空を越えた湿った空気が十勝連峰にぶち当たって雲を作り、稜線上では早々にガスる事は容易く想像出来たし、昨日キャンプ場に向かうバスから見た十勝連峰は、見事に稜線にガスを乗せていた。
気温が下がる夜間はガスが抜けたが、気温が上がり湿った空気が上昇流により運ばれると、山は再びガスを纏(まと)い始めるだろう。
…なんて事を考えながら、寝起きにカフェオレを淹れ一服しながら、「今日は涸沢林道からにしよ」と独り言ちる。
何故ならば、昨日行った日帰り入浴した温泉で、20人程の登山ツアー客を見たからだった。
奴らは…きっと、いや確実に「十勝岳」目的だろう。
つー事は、朝イチに「望岳台」に大挙して押し寄せるという事だ。
本当に迷惑な奴らだ。
自分の力量以上の山に、他人(ガイド)の助けを借りてまで登るべきでは無い。尚且つ、徒党を組んで群れて動くな、みっともない。幼稚園児じゃあるまいし、引率されなきゃ山も登れんのか?
「涸沢林道」に向かって未だ寝静まったキャンプ場を出発する。
デカザックは「プラティパス(水筒ね)」2本分の飲み水と、6本のクラシック(ビールね)のせいで半ば拷問のような重さになっていた。
残雪が消えた…この時季、十勝連峰稜線上の水場は全て涸れている為に、次の飲み水確保地(三川台)までの分を担ぎ上げなければならないノダ。
雨後であれば、「涸沢林道コース」は幾つかの流れ出しを横切る為に、飲み水の確保が出来るかも知れないが、期待できうる降雨も暫くは無く、基本的に飲み水はオノレ自身で担ぎ上げるのが必須である。
道道を離れゲートのある「涸沢林道」に踏み込むと、結構な傾斜を直登する。舗装路の表面に苔がついているのは、その交通量の少なさの証左であろう。
この「涸沢林道」を利用する登山者の多くは、「オプタテシケ」への日帰り、或いは一泊山行か、「美瑛富士避難小屋」に泊まった後に「十勝連峰」や「表大雪」への縦走を目論んでいる山慣れた人達だ。
「十勝岳」のような浮ついたツアー登山者や、ハイキング気分の初心者は居ない。
1時間少々の林道歩きで、寂れた登山口に到着すると、Tシャツは既に汗まみれになっていた。
ザックに付けた温度計の目盛りは、15℃を指している。
気温は夜明けと共に更に上昇するだろう。風も無く、今日は厳しい勝負になりそうだ。
登山口にある入林届のBOXを覗くと、今日は既に「オプタテシケ」往復の登山者3名(1パーティー)が入山している。1時間程…先行しているようだ。
煙草を二本立て続けに吸って、林道歩きで火照った躰をクールダウンしてから、出発する。
今回も足元は長靴にした。
この間の歩荷訓練で試した限り、新しい長靴は岩場でのグリップ力に優れ、靴底も堅すぎず柔らか過ぎず、フィッティングもピッタリだ。
プロノに行って、もう2~3足買ってキープしておこうか…と思う。
暫くは作業道跡のようななだらかな傾斜地を進んだが、やがて広尾根に取り付く頃になると、赤蝦夷松の巨木が目立つ自然林になった。
登山道は緩傾斜なのだが、汗だくになった。
歩き始めて1時間もしない内に、Tシャツはビショビショで肌に張り付いて不快だ。
見晴らしの利かぬ樹林帯の、地味で退屈な辛抱の登坂が続く。
うーん、これなら…「ポンピ沢」越えのルートを選べば良かったかも知れん。
「十勝岳」の裾を巻くルートは、火山礫に覆われていて木が無い分見通しが利いて、少なくとも退屈に悶絶する事は無い。
但し、火山礫のザレ場や溶岩流の谷に架かるハシゴ場や、ポンピ沢の渡渉等…難易度は高く、距離も長い。
どちらにしても一長一短があり、個人的な趣向で決めるしか無いかも知れない。
気温が高く期待したキノコも殆ど見当たらず、キノコセンサーのスイッチも切っておく。
取り付いたばかりで、筋肉をアイドリング中の苦しい時間帯の事を、拙者は…「葛藤タイム」と呼んでいる。
毎回毎回、同じように、縦走だろうと日帰りだろうと、苦しい時間帯に様々な「葛藤」に苛まれる。
殆どの場合、葛藤というか「誘惑」ナノだが…
「ああ、このまま引き返して温泉なんかでノンビリして、しこたまゴクゴクしても良いんじゃないか?別に、誰かに頼まれて縦走してるワケでも無いんだし、縦走しなくても誰にも迷惑はかけないもんな。だって、去年は島旅に行ったけど、別に誰も文句は言わなかったよな。なんか、テキトーに10年ぐらい前の縦走日記を日付だけイジってアップすれば、もしかしたら…誰も気が付かないんじゃないかな~」(コラコラ)
…というような葛藤が恒例行事のように毎回あるワケだ。
ま、もう少ししたら、ちゃんとヘモグロビンが働いて動く事が楽になって葛藤の事なんか忘れちゃうんだけど、
やがてルートが左手に曲がり、トラバースし始めると岩ゴロが増えだして、植生にハイマツが増えてくる。
そろそろ中間地点で、このルート唯一の目玉「天然庭園」が近付いてきているのだろう。
今日3回目の休憩をしていると、背後に気配を感じた。
熊鈴の音はしない。
が、何かしらの気配がする。
羆だろうか…昔、この近くでデカいオスの羆を目撃した事がある。
十勝・大雪山系で目撃される羆は、餌場に居着くメスが殆どだ。警戒心の高いオスは、なかなか出遭う事も難しい。その時初めて見たオスの羆は、背中に金毛を乗せた300kgはありそうな大物だった。
藪の背後から様子を窺うと、単独の登山者のオジサンが現れた。
なかなか山慣れた様子のオジサンと二言三言会話を交わすと、「美瑛富士避難小屋」で一泊して「オプタテシケ」を目指すそうだ。
「それじゃあ、後ほど…」と言って先行して貰う。
「天然庭園」を通過した頃から、曇天が空を覆い尽くし始めた。雲の底も重そうな色をしている。
上川地方で雨の予報は無かったが、娑婆の予報は山では通用しない。
その内、ポツリポツリと雨が落ち始めた。
季節的な事を考えて、今回も合羽の代わりに冬用のジャケットを持ってきたが、この気温で冬用のジャケットなんか着てられん。
幸いに温かい雨だったので、ザックにカバーだけ被せて、濡れながら歩く事にした。
雨で濡れるか、汗で濡れるか…どの道濡れるんなら、ダメージが少ない方を選択したい。
サウナスーツ状態の合羽を着て大汗かいて消耗するか、雨で体を濡らして冷えて体力を奪われるか…
うーん、どっちも辛いな…
雨水を弾く、毛皮が欲しい。
いや、人間の体だって、風呂入って石鹸で脂分洗い流さなければ、少々の雨なら弾く能力がある筈だ。
ま、社会通念上…素っ裸で山を駆け回っているのは許されないから仕方ない。
そんなこんなの内に、雨は段々…本降りになってきたので、ジャケットを羽織る事にした。合羽のズボンはサイドジッパーが股まである【ファイントラック】がお気に入りだ。
登山靴や長靴を履いたままでも、着脱が容易だし、暑い時もベンチレーションとして外部に放熱し風を取り込める。
なによりも軽いのが良い。
藪漕ぎに使うには高価過ぎるが、残雪期のアウターや縦走用に重宝している。
10分程本気で降り続いた雨は、唐突にあがってしまった。
思ったより雨雲は小さかったようだ。
しかし、次の雨雲が南側に遠望出来るから、今日は1日降ったり止んだりなんだろう。
やがて想定通りに次の雨雲が近付いてきたが、先ほどよりも更に雨脚は強くなってきて、登山道は水浸しになってしまった。
オマケにルートは避難小屋のある「美瑛富士」と「石垣山」のコルに向かって雨の集まる沢形地形を成し始めた。
登山道も雨水路と化し雨水が音を立てて流れ始めた。
こりゃあ、殆ど沢登りだ(何故か嬉しそう)。
ま、拙者は長靴だから全然平気なんだもんね~。
そんな雨水路の真ん中で、下山してきた三人組と出会った。
恐らく、今朝方…拙者の前に出発した三人組なんだろう。
狭い雨水路を譲ってもらい、擦れ違いざまに「オプタテまで行けたんですか?」と尋ねると「いやいや、小屋まで行って引き返してきました」と力無く応えた。
「縦走ですか?」と尋ねられたので、正直に「上がってから考えマス」と答えると笑われてしまった。
ルート沿いにあった「避難小屋まで1km」の看板からが長かった。
ガスで遠望は閉ざされ、コルに突き上げるルートは地味にキツく、前回の記憶も薄らいで先行きが見えず精神的に我慢の時間帯になった。
地形にもよるが1kmならば、デカザックを担いでいると1時間は掛かってしまう。
周囲の地形は、そろそろコル(鞍部)に近付いて来ている筈だが、小屋らしき人工物の出てくる気配は無い。
あれ?小屋ってどんな風に現れたんだっけかな?
10年前の記憶を探っても、小屋のあるコルのロケーションは思い出せても、このコースから避難小屋にどう辿り着いたのかは思い出せなかった。
…と思っていたら、笹の藪が開け唐突に目の前にプレハブ造りの避難小屋が現れた。
うむむむ…思わず、ビックリしてしまったではないかっ。
小屋に入ると先ほど追い抜かれたオジサンが居た。
小屋内に張り巡らされた何本もの物干し用の細引きには、濡れた衣服が何枚も吊り下げられている。
かなり濡れたようだ。
拙者も、とりあえず…濡れたTシャツを着替えるが、これは雨というより大半は汗によるものだ。
ズボンも靴下も殆ど濡れていない。
小屋内は15℃近くあって暖かい。
例年なら、こんな天気には気温が二桁に届く事は無い。小屋に入ったら…すぐさま、フリースとダウンを着込んでシュラフにくるまる、なんて事になるのだが、冬用の厚手のジオライン一枚でゴロゴロしていても平気なのだ。
荷物をほどいて、寝床を用意し終えると…クラシックを一本開けた。
喉が渇いていたのもあるが、とにかく…今日の行程はザックの重さにヤラレたので、少しでも軽くしたかった。
っていうか、こんなにまとまった降雨があるなら、あんな重い思いをして飲み水を担ぎ上げる必要は無かったノダ。
暫くは涸れていたテン場の奥の流れ出しの水場には、すっかり流れが戻ってきていた。
つづく。
【写真1】涸沢林道、美瑛富士登山口
【写真2】苔むす赤蝦夷松の森
【写真3】高度を上げると、やがて雨雲に追いつかれた




