独り占めの「旭岳」頂上で、一人物思いにふけっていると、早くも日帰り登山者達が上がってきた。
北海道最高峰を踏んだ興奮からか、みんな一様にテンションが高い。
賑やかな山頂をアトにして下山する事にする。
「金庫岩」を過ぎると、「姿見」に続く尾根沿いに登山者が連なっているのが見えた。
うぐぐぐ…ザッと見ただけで、100人ぐらい登ってきておるようだ。
快晴とはいえ、確か…今日は月曜日の筈だぞ。
何故、こんなに登山者が居るのだ?
寄りによって、最後の最後に…拙者にとって、大の苦手な「コンニチハ地獄」が待ち受けていたとは。
かと言って、引き返して「中岳」経由で下山するワケにもいかない。
仕方ない。「旭岳」下山を選択した試練だと思って我慢するしか無い。

滑り易いザレ場ルートを下りて行くと、呼吸を荒げた日帰り登山者とすれ違い始めた。
一応、上り優先なので、すれ違う時は拙者が待って道を譲る。
登山者が途切れた隙間を狙って、前進するが…なかなか進まない。
殆どが日帰り用の小さなザックを背負った日帰り登山者だが、時々…デカザックを背負った登山者とすれ違い始めた。
相手もデカザックを背負った拙者に気付くと、挨拶のアトに興味深げな視線を送ってくる。
紫外線焼けした古ぼけたザックには、黄色いウレタンマットが外付けされ泊まり山行だと一目瞭然だし、サイドポケットにテントポールが刺さっているのを見れば、小屋泊では無くテント泊だとも判る。
オマケに無精髭の伸び方を見れば、1泊山行とは思えないだろう。
拙者が縦走登山者である事は、経験を積んだ「山ヤ」なら判別出来る筈だ。
そんな登山者とすれ違う時は、こちらから敢えて…声を掛ける。
勿論、こちらも相手の装備や歩き方を見て、それと判別する。
「こんちわ。今日は…白雲泊まりですか?」
「白雲」泊まりか、「十勝」への縦走者かは一見しても判別不能だ。
但し、相手の次の一言で、それは…顕著に現れる。
「縦走ですか?」
拙者の装備や無精髭で縦走だと見破る能力がある者は、必ず…この質問をしてくる。
その度に拙者は答える。
「十勝まで行く積もりだったんですが、ヒサゴで2日停滞しちゃって、日数不足で引き返して来たトコロです」
ちゃんとした「山ヤ」なら、拙者の…この一言で全て理解する筈だ。
気圧の谷の通過ですら、「大雪山」は歩けないくらいの荒れ方をする事。
そんな時は、停滞が唯一の自己防衛手段である事。
今年は更に、エスケープ・ルートに逃げる事が出来無い事。
「ヒサゴ」から「十勝」へは2日では抜けられない事。
表大雪では「旭岳」(若しくは…黒岳)だけが使える登山口である事(実は8日に銀仙台が開通していた)。
引き返すという選択肢しか無かった事。

とある夫婦連れと思しき男女パーティーは、縦走路のコンディションを詳しく尋ねて来た。
「縦走路は概ね…大丈夫ですよ。深く掘れてるトコロはありますが、崩れてるような場所は無かったですね」
次に尋ねるのは、羆の出没情報だ。
「五色から南は、沢山…痕跡ありましたよ。今朝方、ヒサゴから化雲に上がる時、親子羆を見掛けました。登山者が少ないから、彼らも油断してるみたいですから、遭いたくなければ、音出したほうがイイですよ。」
何故か嬉しそうに報告する拙者に、聞くほうも半分笑いながら聞いている。

「大雪山」の最新情報を知りたいなら、下山者に訊くのが一番だ。
特に、ガイドブックには載っていない…水場や羆情報、天候や登山道のコンディションは、そこを歩いてきた人間に訊くのが最も信頼が出来る。

「十勝連峰」へ縦走する積もりだと言う夫婦連れと、会話しながら観察する。
まだ、真新しいデカザックは日焼けもしていないし、汚れてもいない。
登山靴もキレイなものだ。
もしかしたら、長期縦走は初めてなのかも知れない。
不安そうに質問してくる様子で、それが判った。
彼らの緊張を解き、少し雰囲気を和ませようと思って、壊れた登山靴のネタを絡ませる。
「本当は中岳温泉経由で下りようかと思ったんですが、靴が…この調子なんで、早めに下りたほうがイイかなと思って…」
と、細引きでグルグル巻きにした登山靴を指差しすと、二人とも事情が飲み込めてない様子だったので…
「忠別下りてきたトコで、ソールが剥がれちゃったんですよ~。コレ…別に趣味で縛ってるワケじゃ無いですから…ね。」と言うと、不安げだった二人も声をあげて笑ってくれた(特に奥さん、大受け)。

それから…デカザック組とすれ違う度に、同じような会話を何回もして、「姿見の池」まで下りてきた。
「十勝連峰」への縦走者は、先程の夫婦連れと単独の男性の二組だけだった。
明後日から、又…気圧の谷が通過しそうだから、荒れるかも知れない。
皆、無事に歩いて欲しいものだ(ま、今年…縦走しようという者は、ただ者では無いだろ~)。

「姿見の池」の周りは、観光客達で賑やかだった。
避難小屋近くの展望台で一服しながら、休憩する。
北海道最高峰を冠する…この山を眺め、「大雪山」の雄大さの一端を垣間見る観光客達が居て、その頂を目指す日帰り登山者が居て、更に奥深く…本当の「大雪山」を見ようという山泊登山者が居て、もっともっと深く分け入って行く強者縦走登山者が居る。
同じように「旭岳」を歩きながら、目指すものは…人それぞれだ。
これはこれで、「旭岳」の良いところかも知れない。
だが、厳しかった…長い単独縦走のゴールとするには、この場所は…いささか情緒不足と言わねばなるまい。
長かった旅程を振り返り、感慨に耽るには、この場所は場違いに思える。
賑やか過ぎるノダ。
出来うれば、単独縦走者の溢れ出るロマンチシズムを包容し、乖離した非日常的な世界から、日常の地平に徐々に引き戻してくれる余韻と残響を与えて欲しい。
その為に、下山はロープウェイでは無く、「天女が原」経由で「湧駒別」(旭岳温泉)に徒歩で下りる事にした。

「天女が原コース」に入ると、先程までの賑やかさが嘘のようにヒト気が消えた。
暫く下りると、単独の山ガールが上がって来たので、登山道の様子を尋ねる。
「結構、ぬかるんでいましたよ」と教えて貰う。
「頂上まで行くんですか?」と尋ねると、「うーん、どうしようかな。もう、既にバテバテなんで…」と苦笑いした。
ロープウェイを使わずに、ちゃんと下から登って来るなんて、立派なもんだ。と褒めると、照れながら「ありがとーございます」と、はにかんだ笑顔を見せた。
「泊まりだったんですか?」と尋ねられたので、今日…もう何回答えたか分からない縦走の顛末を説明した。
勿論、既に持ちネタ化した…「登山靴緊縛ネタ」をオチにして、説明し終えると…
「それじゃあ、頑張って下りて、ごくごくして下さい」と励まして貰って別れた。
「化雲岳」で出逢った…お嬢様羆には負けるが、なかなか可愛い娘さんだった。

それから、何人かの登山者とすれ違いながら、高層湿原の「天女が原」まで下りて来ると、時間的にも登山者の姿は消えて、静まり返った湿原帯の中を一人下山した。
そう、この…一人、余韻に浸る時間が欲しかったノダ。
湿原帯を抜けると、蝦夷松の巨木が立つ樹林帯の中のぬかるんだ道を辿って、ロープウェイ駅の横に登山口に下山した。

とりあえず、無事に下山した恒例行事である「下山コカ・コーラ」を求めて、ロープウェイ駅に向かう。
駅前のベンチにザックを降ろすと、売店に走って…観光地価格のコカ・コーラを買い、下界の味を堪能した。
登山靴を脱いで、ビーサンに履き替えていると、「いで湯号」が到着し満員の車内から観光客に混じり、デカザックを担いだ何人かが吐き出された。
80Lクラスの大型ザックを担いだ…まだ、20代と思えるニイサンが、拙者の目の前でクロックスから登山靴に履き替え始めたので、声を掛けた。
重い登山靴を履かずに移動するのは、遠方から来たか、山慣れした山ヤだけだ。
「もしかして、十勝まで縦走しちゃう?」
彼は拙者と、傍らにあるデカザックを一瞥すると、直ぐに同種族と判断したらしく、「そうです。縦走ですか?」と尋ねてきた。
「ヒサゴまで行ったんだけど、悪天候で2日停滞して、十勝へ抜けられず戻ってきたトコだよ」
彼は今日、これから入山して、「裏旭」まで上がるという。
装具を整えた彼は、ロープウェイ駅の洗面所で飲み水を汲んできて、慌ただしく準備を進めた。
「大雪山は初めてで…」という彼は、台風の影響でエスケープ・ルートが全滅している事すら知らなかった。
急いでいる彼を引き止める暇も無さそうだったので、「白雲小屋の小屋番さんにでも、詳しい事情をちゃんと訊いたほうがイイよ。今年は、登山者も少ないし例年よりリスクは多いから」と、慌ただしく出発する彼を見送った。

さぁ、そうとなれば…拙者は、前泊時に入りそびれた「湧駒荘」に向かうのみだ。
ザックの中から、今朝方…パッキング時に準備しておいた着替えを入れた「お風呂セット」を持って「湧駒荘」に向かった。途中、「旭岳ビジターセンター」に寄って、日帰り入浴の時間を調べようと思い建物に入ると、如何にも…山ヤ風のスタッフのニイサンが居たので尋ねると、「湧駒荘」を始めとするホテルやロッジの日帰り入浴は、正午ぐらいからだと言う。
時計を見ると、まだ…午前10時半を回ったばかりだった。
一番早く始まる…ロッジ「ヌタクカウシュペ」(大雪山のアイヌ語名)ですら11時からだと教えて貰う。
うむむむ…こちとら、一週間振りの風呂を楽しみに急いで下山してきたというのに、なんという事だっ(急ぎ過ぎたんだな)。
仕方ないので、「湧駒荘」は諦め「ヌタクカウシュペ」にする。
時間調整の為に「ビジターセンター」のニイサンと四方山話をする。
「本当は東大雪に抜けたかったんだけど、音更本流林道もユニ石林道も止まってるじゃ無いですか。それどころか…十六の沢林道すら止まってる。ま、どうせ…十勝三股まで歩くワケだし、多分…通行止めと言っても、道路が少し掘れただけでしょ?無理やり通過しようと思えば、出来る筈なんだけど…前回ユニ石林道が崩れた時は、林道自体が何ヶ所も寸断されてたじゃ無いっすか。森林局のHP見ても詳しい状況は分からないし。だから、ちょっと…ビビって、今回はベタな「旭~十勝」にしたワケですョ。ま、物足りなくはあったけど、化雲で羆親子に出会えたんで、コレはコレで良かったかな…と」
かなりマニアックな拙者のハナシに、ちゃんと付いてこれるニイサンも、アチコチ歩き回っている…本物の山ヤのようだった。
彼とは気が合いそうな感じだったから、いつか何処かの避難小屋で一晩ゆっくり語り合いたいものだ。
だが、今…拙者は、風呂に入って、ごくごくもせねばならない忙しい身だ。
こんな処で、のんびり語り合うワケにはいかない。
ちょうど、外国人の青年が入って来て、何か尋ねたそうにしていたのでニイサンと別れて、ロッジ「ヌタクカウシュペ」へ向かう。

玄関から中を窺うと、宿泊客を送り出して館内を清掃中らしく、バタバタしている奥さんに「お風呂は11時からですか?」と訊くと、「露天は、お湯を溜めてる途中だけど、内風呂なら入れますよ」というので、内風呂に入れて貰う。
古びた木造の、こじんまりとした内風呂は、少しぬるめだったが源泉掛け流しで、十分満足するものだった。
いや、むしろ…拙者好みの昭和イズムに溢れた風呂だった。
風呂から上がって、400m程離れたロープウェイ駅に急いで戻る。
先程、売店で…「旭岳」の銘が打たれた、限定ビールを見つけたからだ。
今し方到着したロープウェイが吐き出した…土産物を物色中の観光客達の間をすり抜け、黄緑色の缶の大雪山ビールをゲットする。
人混みを逃れて外に出ると、「旭岳」が見える駐車場に行き、「旭岳」と乾杯し、勢い良くカラカラの喉に流し込んだ。
ごくごくごくごく…ぷっは~
長い縦走旅が終わった瞬間だった。

つづく。

【写真1】
【写真2】
【写真3】





「白雲岳避難小屋」に辿り着くと、上空は晴れ渡って暑いぐらいに気温も上昇していた。
時間は、午後1時を回ったばかりだった。
小屋前のテラスで一服していると、小屋の宿泊客らしきニイチャンが話し掛けてきた。
「なかなか…羆は現れないッスね~」
テラスには、立派な三脚の乗せられた単眼鏡が置かれていて、羆狙いで白雲小屋に泊まり込んでいるニイチャンの物らしかった。
「高根が原にも全然痕跡は無かったよ。コケモモもまだ実ってないし、まだ…この高度には上がってきて無いんだね」
最近、「白雲小屋」周りには…「高原沼」をテリトリーとする雌の羆が現れているというハナシを聞いた事がある。
恐らく、何年か前に拙者が「高根が原」で15mの近接遭遇をした同じ個体だろう。
その昔、「白雲小屋」には良く雌の羆が遊びに来ていた事があった。写真集にもなった「K子」と呼ばれた個体だ。
拙者が30年前に初めて「大雪山」を縦走した時に、「白雲小屋」の向かいの斜面の雪渓で目撃したのも、その「K子」だった。
「高根が原」には、羆の好きな高山植物の実が沢山あり、「高根が原」が「高原沼」より1ヶ月ばかり季節が先行する事をちゃんと知っていて、この時期になると羆が上がって来るようだった。

「今年は、縦走登山者が少ないから…五色から南には、沢山痕跡あったよ。そうそう、今朝方…ヒサゴから化雲に上がる途中で、子連れの羆にも会いましたよ。」と、今朝方の羆遭遇事件の顛末を話したら、真剣に羨ましがられた。
「今日は、ココに泊まるんですか?」
「うーん、まだ昼過ぎだからね~。裏旭まで行って張ろうと思ってんだけど…」
「こんなトコで、ノンビリしてて大丈夫ですか?」
「ま、日が暮れるまでに着きゃあイイから、大丈夫でしょー」

羆ニイチャンと話をしていると、小屋番のニイサンもテラスに出てきた。
何年か前の縦走で、台風に直撃されて3日間程停滞していた時に、居合わせたカメラマンのニイサンと三人で宴を催した時の小屋番のニイサンだったが、彼は拙者の事は覚えていないようだった。
「ヒサゴにオジサン居なかったですかぁ?」
「あぁ、例の…たかりオジサンかい?居なかったね~。忠別小屋に居るんじゃないの?」
昨年、大雪山系の無人の避難小屋を渡り歩いて、同宿した登山者から食糧をたかっているという…変なオジサンの話は聞いていた。
「もし会ったら、締め上げてやろ~と思って楽しみにしてたんだけどね~。ま、なかなか…忠別小屋に寄ろうという登山者も居ないでしょ?特に今年は」

三人で暫く(文字通り)四方山話をして、「白雲小屋」を出発する事にした。
テン場には、今し方到着したばかりの若者が設営をしていた。テント泊に慣れていないのか、あっちこっちウロウロして要領を得ない様子だった。
設営の邪魔をしては悪いので、話し掛けずに「白雲分岐」への上りに差し掛かると、単独の山ガールとすれ違った。
挨拶しても返答は無く、ヘロヘロと歩いている。
恐らく…さっき設営していた若者の相棒なのだろう。
「先に行って設営してるから、ゆっくりおいで」と優しいトコロを見せたのだろうが、初心者を置いて先行するのは薦めないな。初心者や体力的弱者にサポートも付けずに、パーティーを分割すべきでは無い。絶対に…だ。
ついこの間「天人峡ルート」で事故があったばかりじゃないか。
ハイマツ帯を抜けたトコロで、今度は山慣れしていそうな単独登山女子とすれ違った(山ガールじゃ無いヒトは、こう呼ぶ)。
荷物が少ないから、小屋泊まりだろうか。挨拶をすると、元気良く返してくれた。
喘ぎながら「白雲分岐」に上がって来ると、目がチカチカするような派手派手ウェアの一団が居た。
賑やかな支那語が飛び交っているから、台湾からのツアーだろうか。
ガイドと思しき男性のザックカバーには、「team TAIWAN」の文字が白抜きされていた。
こりゃあ、今夜の「白雲小屋」は騒がしいぞぉ。

「白雲分岐」を過ぎると、天候が一変した。
濃いガスに包まれており、「北海岳」の姿も見えぬ。気温も一気に5℃近くまで下がった。
晴れていたのは、「三笠新道分岐」から「白雲分岐」までの間だけナノか?
暫く歩くと「北海岳」へ向かうルート沿いに、フリースを着込んでいる外国人のニイサンが立ったまま休憩していた。
挨拶を交わし通り過ぎようとしたが、どうやら…「十勝岳」まで縦走しそうな雰囲気を持っていたので、気になって声を掛けた(勿論、英語で…だ)。

「今日は、これから何処まで行くの?」
「白雲岳避難小屋まで」
「もしかして、十勝岳まで歩く積もりかな?」
「うん、その積もり。アナタは何処から来たんですか?」
「今日は、ヒサゴ沼から歩いて来たんだ。ヒサゴ沼分かるかな?」
「あぁ…凄く遠くだよね?」
「うーん、確かに…。8時間ぐらい掛かったかな」
「ふぅ~そりゃ大変だぁ。何処から入ったんですか?」
「旭岳だよ。んで、十勝岳まで行こうと思ったら、嵐で避難小屋に二日間閉じ込められたんだ(lock up in shelter-hut)。んで、日数が足らずに旭岳に戻るところさ」
「僕も同じだよ。二日間避難小屋に居たから。凄く荒れたよね~」
「だよな。全く、クソ嵐だったよな(また、汚い言葉を使ってしまった…)」
「明日からの天気はどうかな?」
「多分…良くなる。きっと晴れる筈だよ。だって、俺が下山しちゃうから…ナ」
「ワハハハハ♪」
「んじゃあ、羆に気をつけて…良い旅を」
「ありがとう」
「May the force be with you」(フォースと共にあらん事を)
…と握手をしながら言うと、彼はニカッと笑い、景気良く親指を立てて、「言うじゃん」みたいな感じで、拙者を指差してもう一度「Thanks」と言った。

「北海岳」へ登っていると、ガスがどんどん濃くなり濡れてきたので、慌てて合羽を着る。
風も強まって、体力を奪われる。
うーん、こんな事なら「白雲」で泊まれば良かったな。
稜線に上がると、荒れ方がいよいよ厳しくなってきた。
10時間近く歩いて疲労も蓄積している。
日没までは、まだ2時間ぐらいある筈だが、辺りが暗くなってきた。上空に雨雲でも入ったかな。
幾つかの小ピークを越え「間宮分岐」から、「裏旭」へ降りて行く。
ヘロヘロになりながらテン場に着くと、7~8張りもテントが建っていた。
うむ?こんなに人気なテン場だったっけ?
「裏旭」のテン場は、大してロケーションが良いワケでは無いし、オマケに「裾合平」を駆け上がった西風の通り道でもある。
「裏旭」でテントが飛ばされた…というハナシは何度も聞いた。
だから、ここのテントサイトには西風を避ける為の石組みが各々のサイトに付いている。
水場に近いサイトが空いていたので、ソッコーで設営して、水汲みして、テントに飛び込んだ。

濡れた合羽を脱ぎ、ダウンを羽織って、ジャージに履き替える。
テント内で吐く息が白い。
バーナー全開でお湯を沸かし、スティックのカフェオレを淹れて、一息つく。
いやはや、今日は「羆遭遇事件」に始まりイベント満載の1日だった。
久し振りに10時間以上歩いたし、「まだまだ、やれんじゃん、俺」的満足感を味わえた。
ただ、やはり…何度も歩いたルートだから、新鮮さやドキドキするような面白さは無かった。
ま、20年以上…「大雪山」を歩いてるんだから、仕方ない。

晩御飯は「麻婆春雨」と白飯にした。
重い食糧はあらかた片付いた。
最後の「クラシック」を開け、キンキンに冷えたヤツを流し込む。
陽が暮れて、かなり冷え込んできた。これなら、明日は…きっと晴れるだろう。

この一週間、ずっと…聖子ちゃんの歌声に起こされてきたが、秋縦走なんだから「夏の扉」では無く「風立ちぬ」にすれば良かったな。と今頃気付いた。
周りのテントの人達も、既に起きているようで、気の早いパーティーは、もう撤収を始めているようだ。
外の様子を見ようとしたら、テントに付いた雨滴が凍っているのに気付いた。
どうやら…氷点下まで冷え込んだようだ。
入口を開けると、キリリとした冷気が肌を刺した。
まだ薄暗いが、上空に雲は無さそうだ。
東の空の群青色の中に、仄かに橙色が混ざり始めている。
熱いカフェオレを淹れて、ダウンを着込んで外に出て御来光を待つ。
隣のテントのパーティーは、テントを撤収してザックをテン場にデポして、空身で「旭岳」に向かうようだ。
5時30分。東側の稜線から御来光が昇った。
今回の縦走で初めての御来光だった。
振り返ると「裏旭」が赤く染まっていた。

朝カレーの朝食を食べて、のんびり撤収する。
本当は、「中岳温泉」から「裾合平」を抜けて下山したかったが、登山靴が心配だから大人しく「裏旭」を乗越して「姿身の池」に下山する事にした。
「黒岳」から「層雲峡」への下山コースも考えたが、下山はロープウェイを使いたくなかったので、比較的楽な「旭岳」を選んだ。
「層雲峡」への下山コースは、30年前の初めての縦走で経験済みだが、めちゃくちゃキツかった記憶がある。
ザックを背負って、ザレザレの「裏旭」を登る。
うぐぐぐ…なんと、歩きにくいルートだろう。
涸れた雨水路沿いにルートが切ってあるが、堅い地面が殆ど無い。火山礫の堆積したザレ場を、ゆっくりと高度を上げて行く。
5日前に下っていた時は、ココを登り返す事になるとは思ってもみなかった。
半分ぐらい上がって来ると、上から単独の男性が下りて来た。
よっぽど寒がりなのか、ダウンの上着とズボンを穿いているが、小柄な体に80Lザックを背負って、あらゆる物を外付けにしていて、ちんどん屋みたいだ。
「表大雪」は色んな登山者が居て面白いな~。

30分ほどズリズリ登って「旭岳」ピークに到着した。
おぉ…
快晴の山頂からは、360度のパノラマが見渡せた。
北大雪の「ニセイカウシュッペ」から、「永山岳」「比布岳」の表大雪北部の山嶺群。
東側の稜線には…「北鎮岳」「桂月岳」「黒岳」の峰々が続き、「北海岳」「白雲岳」「赤岳」「緑岳」の連なりが見え、遠くに「トムラウシ」の特徴的な岩峰が孤高に起立し、「オプタテシケ」「美瑛岳」「十勝岳」「上ホロカメットク」「富良野岳」の十勝連峰の主稜線上に続くピークは遠く霞んでいる。
見渡せたる限りの…あの山々全てを歩いたのだな。と思うと、流石に感慨深いものがある。
最初の10年ぐらいは、「表大雪~トムラウシ」のオーソドックスな縦走路を何度も歩き、少しづつマニアックなルートを挑戦して行った。
そして、ある日…地図上の縦走路の殆ど全てを歩いてしまった事に気付いた。
これは…なんと言うか、自分的には自慢というよりも、ショックだった。
もう、未登ルートが残されていない事が、とても寂しい事に思えたノダ。
まだ歩いていない…あのルートは、どんな感じなんだろう?と胸をときめかせる事が無くなったノダ。
しかし、拙者の知る「大雪山」は…ほんの一部でもある。
神奈川県と同じぐらいの面積のある「大雪山」の、ほんの上っ面を歩いただけだ。
まだまだ、拙者の知らない「大雪山」は沢山残されている。


つづく。

【写真1】うーん、2時間前からずっと見えてんだけど、なかなか近付かないな~
【写真2】裏旭のテン場 殺伐としとる
【写真3】左から「忠別」「トムラ」「オプタテ」その他十勝連峰の皆さん



「ヒサゴ小屋」から「化雲岳」へのルートには、「化雲平」に木道が作られた時に、雨水路だったルート沿いに木製の階段も作られていたが、雨水路に雨や雪溶け水が流れる度に土壌が流され、殆どの階段が地面から浮いていて、危なくて乗れない状態になっている。
慎重に階段を避けながら、朝イチの苦しい登坂に喘ぎつつ、ゆっくりと高度を上げる。
「化雲平」から「ヒサゴ沼」への緩斜面には、巨大な雪渓が残っており、その縁のガレ場伝いにルートが伸びていた。
30分程経って、やっと体が温まってきて呼吸が楽になり、景色を眺める余裕も出てきた頃、前方の雪渓上に動く黒い物体を発見した。
黒い三つの影がゆっくりと雪渓の上を歩いていた。
羆の親子だった。
3日前…「五色~化雲」の縦走路で見た痕跡の主だろう。
彼らまでの距離は、5~60mという感じか。彼らは未だ、拙者の存在には気付いていないようで、のんびりと雪渓上を散歩している。
朝ご飯の帰りだろうか。
特段、辺りを警戒するふうでも無く、朝の散歩を楽しんでいる。
先頭を歩いているのは母羆だろうか。体重200kg前後の標準的な雌の大きさだ。
母羆の後ろに居るのは、殆ど母羆と大きさが変わらない仔羆で、生後2年目だと思われる。きっと、雄なのだろう。
最後尾に小柄で幼い印象の仔羆が居た。あれは、きっと…お嬢ちゃんだな。
同じ年に生まれた兄妹でも、雄と雌では、こんなに体格差が出るものなのか…。
暫く観察していたが、彼らが風上に居るせいか…まだ、拙者には気付いていない。
羆は極度の近視だから、目視で…動いていない拙者を発見出来無いでいるのだろう。
このまま、雪渓上を「ヒサゴ沼」に下りてくれるなら、黙って見ていられるが…母羆は、拙者の居る斜面にゆっくり向かって来ていた。
一般的に…仔羆を連れた母羆は、仔を守る為に時に攻撃的になると云われているが、生まれたての当歳羆では無く母羆と同じぐらいに成長した二歳羆なら、向こうも余裕はあるだろう。
3日前の掘り返し跡を見ても、殆ど自力で食糧を探せるだけの経験を積んでいるし、この冬を越せば親離れをするのだ。
とりあえず、彼らに拙者の存在を知らせて、出方を窺うしか無いか…
これ以上接近すると、互いにストレスを感じる距離になってしまうし、彼我の距離があり余裕がある内に人間の存在を認知させるべきだろう。
前回、「白金温泉」に下山中に羆と遭遇しかけた時のように、「ほ~い」と少し間延びした声を出した。

拙者の声に、先頭の母羆が気付いて動きを止めた。
鼻先をコチラに向けて、声の主を探っている様子だ。
「お~い、あんまし近付いちゃダメだよ~」と柔らかく話し掛けると、やっと…拙者を認識したようだった。
さぁ、どうする?
どう出る?

暫く固まっていた母羆は、特段…慌てるふうも無く、「あら、いやだ。人間だわ」というようにコチラを観察している。
仔羆達も母羆の動きに気付いて、拙者のほうを見ている。
すると、先頭の母羆が雪渓の上を小走り走り始めた。
走り出したのは母羆だけで、仔羆達は殆ど動いていない。
母羆は、どんどんスピードを速め、殆ど全力疾走という感じで雪渓の上を駆け抜けて行く。緩やかな下りとは云え、かなり速く躍動感が半端無い。
母羆がやがて濃いガスの中に消え見えなくなると、母羆のアトを追ってお兄ちゃん羆が走り始めた。
うーん、そんなに慌てて逃げなくてもイイではないか。
なんだか…片思いの相手に嫌われたみたいで、一抹の寂しさが胸をよぎる。
走り出した母羆と兄ちゃんを見て、お嬢ちゃん羆はどうしたかと…見ると、まだ…のんびりと歩きながら、時折…拙者の方をチラ見している。
むしろ、「気になって仕方ありませんわ」、という感じだ。
その仕草に思わず…「イヤイヤ、お前も走って逃げんかいっ」と思わず突っ込んでしまった。
のんびり屋さんというか、危機意識が足りないというか…
ああ、もしかしたら、アレが最近増えていると云われる…人間を怖がらない「新世代羆」なのかも知れない。
ま、好奇心旺盛な年頃だし、生来の性格もおっとりしているのだろう。
お嬢ちゃん羆は、ゆっくりと雪渓上を歩いて、やがて…母羆達が逃げ込んだガスの中に姿を消した。

発見から消えるまで、僅か5分足らずの出来事だったが…拙者は、暫くニコニコが止まらなかった。
久し振りに彼らと出逢えたヨロコビに、ココロ打ち震えていた。
それも、母仔羆だったのだから、特別感が強い。
10年以上前に、「忠別小屋」から向かいの斜面に遊ぶ母仔羆を双眼鏡越しに見た事はあった。
その時は、本来…二頭生んだ筈の仔羆が一頭しか居らず、やんちゃ盛りの当歳羆(生後半年ぐらいか?)は母さん羆にまとわりつき、じゃれつき、草の上を転げ回って遊んでいて…大層和ませて貰った。
それ以来の、親子羆との対面だった。

今回、何枚か写真は撮ったが、ガラケーのカメラだから、彼らの姿は黒っぽい点にしか写っていなかった。
ったく、「大雪山」というヤツは…縦走を諦めて意気消沈している拙者に、素晴らしい誕生日プレゼントを与えてくれ、なんて素敵な演出を考えるヤツなんだろうと、思わずにいられなかった。
ヤツの術中にハマって、何度も痛い目に遭いながらも、こうして帰ってきてしまうのは、時々…こういう粋な演出をしてくれるからナノだ。
まったく、 困ったものだ。
コレで、又来年…戻って来てしまうではないかっ。

「化雲平」にある「化雲岳」に向かう分岐に上がって来ると、少しずつ空が明るくなり始めた。
3日前に歩いて来た同じルートを、「表大雪」に向かって引き返す。
食糧や酒が減り、かなり軽くなったザックのおかげで、毎回悩まされる背中の痛みも少なく、タップリ休養もとれたので足取りは驚く程軽かった。
これなら…頑張れば、今日中に「オプタテ」まで行けるんじゃないかと、振り返ると「トムラウシ」は濃く深いガスの中に沈んでいた。
やっぱり、南側は…回復は遅いか…。
羆親仔にも逢えたんだから、大人しく「表大雪」に戻ろう。
未練を断ち切って、「五色岳」への木道を進む。
ハイマツ帯には新しい羆の痕跡は無かった。今朝…彼らは、ここまで上がっては来なかったようだ。3日前、うっすらと残っていた足跡は、この二日間の雨で洗い流されたようだ。
辿り着いた「五色岳」で、久し振りにmixiにログインすると、沢山の誕生日メッセージやコメントが寄せられていた(アリガトーゴザイマス)。
先程の「羆親仔遭遇事件」を投稿しようとしたが、厚いガスのせいで直ぐに圏外になってしまった。
ま、慌てる事は無い。
お楽しみは、日記まで取っておこう。

今日は「忠別岳」のキツい南斜面の登坂や、ダラダラ長い「高根が原」の上りがある。
無理をせず、いつもの縦走ペースを守って、のんびり行こう。
「忠別小屋」への分岐があるコルから、地味にキツい上りが始まる。
ザックは軽くなったとは云え、まだまだ…登坂すると呼吸は荒れる。時々、立ち止まって呼吸を整えながら、ジグが切られたガレたルートを上がる。
数回…電光を切ると、単独縦走のオジサンとすれ違った。
4日前…「白雲小屋」のテン場にテントを張っていた…見覚えある顔だった。あれから、ずっと「白雲」に居たのだろうか。
いつもなら、縦走登山者とすれ違えば…「何処までですか?」と尋ねるが、今年は訊かなくても判るから楽だ(だって、十勝しか無いんだも~ん)。
「ヒサゴで二日間沈澱(=停滞)しちゃって、日数不足で旭に戻ります」と言うと、「残念でしたね」と慰められた。
80Lクラスの大型ザックの他に、たすき掛けにしたダッフルバッグを持っていた…細身のオジサンと、暫く世間話をして別れた。

「忠別岳」ピークは、立ったまま休憩して直ぐに出発する。
緩やかに下るルートを「忠別沼」に向かっていたら、突然…左足に違和感を感じた。
ん?なんだ?
見ると…登山靴のソールが半分程剥がれてしまっていた。
ガガーン!
なんじゃ、こりゃあ!?(松田優作風にお願いします)
登山靴のソール剥がれは、経年劣化によりゴムが加水分解して起こる現象らしく、山岳雑誌などで記事は見ていたが、こんな場所で、こんなタイミングで起こるとは…ビックリポンである(朝ドラ「あさが来た」を見てれば分かる)。
イヤイヤイヤイヤ!
寄りによって、こんな…大雪山のド真ん中で、下山まで…まだ丸一日以上掛かるというのに、ど~すんねんっ。
剥がれたソールを観察すると、どうやら…加水分解系の剥がれ方では無い。
そもそも、拙者の登山靴は…いわゆる、「マウンテン・ブーツ」というヤツで、ソールの交換が可能なタイプである。5年ぐらい前に、一度ソールを貼り替えた事がある。
その…貼り替えた部分が剥離していたノダ。
剥がれているのは爪先部分で、踵部分は大丈夫なようだ。
とりあえず、ちゃんと歩けるようにしなければならない。
持っている装備の中で、修繕に使えそうなモノを思い浮かべた。
日頃から山行に必ず持参している…通称「お助け袋」には、いざという時の為に様々な道具が入っている。
2mm径の細引き。メタ(固形燃料=焚き火用着火剤)。サバイバルシート。ライター。布テ(ライターのボディにクルクル巻き付けてある、時に着火剤代わりになる)。発光体(ポキッと折ったら光る棒)。マーキング用テープ。リペアシート(テント補修用)。強力ダクトテープ…等々。
とりあえず、強力ダクトテープでアッパーとソールをぐるぐる巻きにする。
パカパカはしなくなったが、この先…ガレたルートでは、どれぐらい保つだろうか…。
再び歩き始めたものの、靴が気になって仕方無い。
上空は時折、青空がのぞき始め、ガスも切れだし、やっと…遠景が望めるようになったのに、足元ばかり見ながら歩くしかなかった。
「忠別沼」を通過し、小高い丘を上り始めたトコロで、ダクトテープが切れてしまった。
うむむむ…高山帯のガレたルートでは、ダクトテープ如きでは1kmも保たないノダ。
切れたダクトテープを剥がして、2mm径の細引きでぐるぐる巻きにする。
上手い感じにソールの溝に細引きが咬んで、固定されている。
これなら、簡単には切れないし、大丈夫だろう。
青い登山靴に、鮮やかな黄色の細引きが映えて、なかなかの…オシャレ感が出ている。
ただ、惜しむらくは…巻き方が少々野暮ったい。「亀甲縛り」でもすれば、もう少し見栄えもするだろうが、生憎…そのテのテクニックは持ち合わせていない(いざという時の為に、勉強しておこう)。

しかし、「親仔羆遭遇事件」の次は「登山靴ソール剥離事件」とは…色々と考え練られた演出をしてくれるもんだ。大雪山というヤツは。
こ~ゆ~、イベントは要らないんだけど…な。
「オーソドックスな縦走ルートで退屈しておられるようなんで、色々…ハプニングを織り交ぜてみました」的な演出は必要無いノダ。
フツーに、のほほんと歩かせてくれぃ。頼むからっ。

「平が岳」手前の…初日にビバークしたポイントまでやってくると、ガスが抜け青空が広がり「白雲岳」が見え始めた。
気温も上昇し始め、見る見るうちに10℃を超えた。
右手に「高原沼」の湖沼群を見下ろしながら、「高根が原」の緩やかな勾配を上って行く。
そうだった。拙者は、ここの景色が大好きだったノダ。
ココをのんびり歩きたくって、通っていた頃もあったぐらいだ。
高度感のある俯瞰眺望と、麓に広がる広大な樹林帯。その向こうに連なる「石狩連峰」の遠景は、得も言われぬ雰囲気がある。
「大雪山を歩いてるんだなぁ」と、つくづく感じる…素敵なルートなのだ。

つづく。

【写真1】ヒサゴ~化雲岳斜面で出会った羆親仔
【写真2】ソール剥離事件発生
【写真3】細引きでグルグル巻きに縛りつけた