【第1日目】
縦走初日の心境を一言で表すのは難しい。
正直、気持ちの高揚感が無いワケでは無いが、それよりも緊張感や恐怖心、不安感が勝る事の方が多い。
何度…大雪山に通おうと、何回も歩いたルートであろうが、慣れる事は無く、毎回…胃がキリリと痛むような緊張感に襲われる。
それが、これから一週間も続くと思うと、いたたまれない気分になる。
だが、同時に…それは、自身が求めて止まない緊張感でもある。
単独行とは、そんな…プレッシャーとの、葛藤や相剋そのものとも言える。
頼るべき他者や、助言を与えてくれる者は居ない。
全ての判断を独りで行い、その結果を受け入れるしか無い。
ほんの些細な判断ミスが、生死を分ける事だって有り得る。
自己完結を果たせる者だけが、入る事を許された世界。
それが、それこそが…「大雪山単独縦走」という行為に他ならない。
午前4時半起床。
曇天ながらも、風も無く穏やかな朝だ。
朝食を食べ、今日1日分の行動食をジップロックにアレコレ詰め、昼食用の「尾西の山菜おこわ」にも湯を入れ、戻しておく。
入山日となる今日は、長い長い登りが待っている。
前回、「天人峡」から入った時は、「ヒサゴ分岐」の近くにある沼のビバーク地点に着くまで9時間掛かった。
それも、殆ど登りっぱなしの、我慢が必要な1日になる。
縦走中は殆ど昼食を食べないが、今日のような日は昼食を予め用意しておく。
今朝方、避難小屋の隣りにある駐車場には何台かの車が来て、何人かは山へ入っているようだが、大雪山のマイナーな登山ルートである「天人峡」からの入山者は、極めて少ない。
昨年、仕方なく入山した「旭岳温泉」のように、浮ついた観光客や、遠足気分の日帰りハイカーは此処には居ない。
入林届(登山届では無い)に記入して、高度差200mを一気に上げる九十九折りルートに取り付く。
気温は10℃だが、登坂を開始すると、汗が吹き出した。
ブッシュハットを脱ぎ、長髪をまとめ頭にバンダナを巻く。
普段は長髪が邪魔にならないようブッシュハットを被っているが、「ここぞという時」は昔のように、バンダナを巻く事にしている。
写真でバンダナを巻いてる時は、ガチな時という事である。
1時間掛けて「滝見台」まで上がって来ると、話し声が聞こえた。
見ると、オジサン達の5人連れだったが、山登りという感じでは無い。
オレンジ色の派手なベストを着たオジサンの手には、スコープ付きの大型ライフルがあった。
鹿の猟期では無いから、羆の駆除だろうか?
登山道のあるような大雪山系で、羆の駆除も無いだろう。登山者が獣害に遭ったというハナシも聞いていない。
しかも、ライフルを持ってるのは一人だけだ。
ライフルを持ったオジサンが、「時々、羆出るけど、遭っても絶対に逃げないようにね」と笑いながら出発して行った。
「滝見台」で休憩しながら、旭川で買ったタバコ4箱が、いつも入れている雨蓋の中に無い事に気がついた。
何処かに忘れてきてしまったのだろうか?
アチコチ探すが、見当たらなかった。
今吸っているタバコの箱の残りを確認すると、アト…4本しか無い。
一週間を4本で乗り切るのは、かなり…辛い。
晩飯のアトに1本づつ吸っても、下山日までは保たない。
旭川駅でパッキングした時に、詰め忘れてしまったのだろうか?
今夜の泊地に着いて荷物を解いた時に、もう一度探してみよう。
「滝見台」から羽衣の滝越しに「旭岳」が見えるが、アタマに薄いガスを纏っている。
やっと尾根に乗ったが、此処から左手の「忠別川」沿いに、見通しの利かない、長い退屈な、地味に消耗する、樹林帯の尾根歩きが始まる。
昔の山ヤは、こういう道を「アルバイト」と呼んだそうだ。
しかし、昨年のように…ロープウェイで、いきなり森林限界を超えた高山帯に運ばれるのも、興を削がれるようで、ツマラナイものだ。
自力でのアプローチはキツいが、これが本来の山登りの方法論だ。我慢強く、地道に高度を上げるしか無い。
2時間にも及ぶアルバイトは、高層湿原帯のある台地に上がる急登の登場で終わりを告げる。
急峻な崩落崖と思しき急斜面に、へばりつくようなルートを上がると植生が一気に変わる。
樹林帯のそれから、唐突に高山帯の高層湿原に入り込む。
ふと足元に目をやると、立派なナラタケ(北海道では、通称…ボリボリ)があった。
無意識に摘み取ってから、此処が国立公園だった事を思い出した。
今更、戻しても腐敗するだけなので、夕食に加える事にする。
暫く行くと、前方の根曲がり竹の藪の中に気配がした。
何か居る。
足を止め、気配を殺し、前方を警戒する。
すると、ヒトの話し声がした。
近付いてみると、先程…「滝見台」で会ったライフルを持っていたオジサンが、木道の真ん中に所在なげに一人立っていた。
話しを訊くと、どうやら…登山道脇の藪にある、何かの観測機械の保守点検に来たようだ。
役所の仕事なので、決まりとして…羆の生息地帯での作業は、ライフルを持った護衛の人間が同伴しなくてはならないらしい。
木道の上に無造作に置いてあるライフルは、軍隊や警察のスナイパー御用達の「レミントン社」の高性能ボルトアクション・ライフルのようだった。
一見、好々爺のような人の良さそうなオジサンだが、ベテランのハンターのようだ。
「オニイサンは、これから何処行くの?」
「今日は、ヒサゴ沼まで上がって、それから東大雪の石狩岳を越えて、十勝三俣の方に抜けます」
「へぇ、そりゃあ大変だ。何日も掛かるんだろ?でも、それが楽しいんだ?」
「そうですね」
オジサンと立ち話をしていると、作業ヘルメットを被った体格のいいオジサンが藪から出てきて、ライフルオジサンが「十勝三俣まで行くんだって」と報告している。
技術者らしいオジサンは、信じられない…という顔付きで、驚いていたが、ハンターオジサンは、羨ましそうにニコニコしている。
ハンターも山ヤも、一般人には理解されない価値観を共有しているのだろう。
山を歩く事の面白さは、山をやらない一般人には、到底…理解されない事ナノだ。
「今夜のオカズも採れたんで」と、ライフルオジサンにナラタケを見せると、「ほぉ、美味そうなボリボリだなぁ」と笑っている。
「そんなの食べて、お腹壊さないですか?」と技術者オジサンは、訝しげだ。
「何言ってる。なまら、美味いんだぞぉ」とライフルオジサンは力説している。
オジサン達と別れて、高層湿原帯の木道を進む。
一面の草紅葉の湿原帯は、静寂が支配していた。
暫く雨も降っていないらしく、高層湿原は乾いていた。
ザックを下ろし、木道に腰掛けて昼ご飯にする。
行程的には、まだ…3分の1というトコロだ。
曇天は相変わらずだが、風が無いので天気は保ちそうだ。
「尾西の山菜おこわ」を食べ終えると、つい習慣でタバコに手を伸ばしたが、残り4本ナノだ、こんなトコロで吸うワケにはいかない。
その時、ふと思い出した。
「パッキング時に見失った物は、大抵はザックの一番底から見つかる」という、デカザックあるあるを。
木道に転がしたザックのボトムを見てみると、本来はシュラフがある筈の部分に、なにやら…角張った異物がある。
触ってみると、やはり…タバコだった。
やっぱり…だ。
今朝方のバタバタしたパッキング時に、気づかずにシュラフを押し込んでしまったノダ。
そうと分かれば、安心して一服出来る。
但し、今夜の泊地に着いて、荷物を解くまでは、この4本を保たせなければならない。
このアトの休憩ポイントを思い浮かべてみる。
次の休憩は、森林限界を越えた「ポン化雲」の手前だろう。
その次は、「化雲岳」ピーク。
「ヒサゴ小屋」か、ビバークにするかは決めてないが、泊地に到着した時点で一服はしたい。
という事は、今…1本吸っても大丈夫だな。
先程まで、1週間を4本で過ごさねばならない貧乏生活から、一気に残り4箱のブルジョワ喫煙生活になって、ホクホクする。
高層湿原帯に敷かれた木道が切れると、雨水路ルートにかかったが、全く水が流れていなかった。
本来、水がジャバジャバ流れている筈の場所も、カラカラに渇いている。
こんなのは初めてだ。
せっかく、長靴を履いて来たのに。
むしろ、アチコチで岩が露出していて、底の薄い長靴では足が痛かった。
「ポン化雲」に続くハイマツ帯のそこかしこに、赤く色付いたナナカマドが鮮やかなアクセントを加えていた。
思ったより紅葉は進んでいるようだ。
ハイマツ帯の直登ルートを上がると、やっと稜線に乗れた。
足元のウラシマツツジも真っ赤に色付いている。
気温は一気に一桁に下がって、時折…ガスが流れて来るようになり、遠景は閉ざされてしまった。
「ポン化雲」に上がると、ポツポツと小雨が落ち始めたので、荷物にはザックカバーを掛け、合羽代わりのハードシェルを羽織った。
どうやら、天候は下り坂のようだ。
今日は、ビバークするより避難小屋に入った方が良さそうだ。
「化雲岳」に到着すると、雨と共に風も出始めて、気温も2℃に下がった。
山頂の大岩の陰で風を避けながら、一服する。
岩陰のブッシュの中に、昨日上がってきた「D隊員」からの餞別デポを発見した。
コンビニ袋に、「クラシック」が二本入っていた。
昨夜の彼のハナシでは「12本置いておきました」という事だったが、冗談だったようだ。
普段…余り冗談を言わない奴だから、分かりにくいノダ。
とりあえず、有り難く回収させて頂く。
「ヒサゴ沼」に下りる途中の、濡れた木道で二回すっ転んだ。
登山者に踏まれ、風化した木道の表面は濡れると…かなり危険だ。
沼の畔の分岐にザックをデポして、大雪渓まで水汲みに行く。
「ヒサゴ沼」を取り囲む紅葉が見事だ。
雨が少ない夏だったせいか、普段消えている筈の雪渓もアチコチに残っていた。
大雪渓手前の右手の斜面に残っていた雪渓から、融水が流れ出していたので、そこで水汲みをした。
苔に濾過された雪渓融水は、埃っぽい匂いがせず美味だった。
「ヒサゴ沼避難小屋」には、先客が3組4名居た。
「白雲」から来たというオジサンは、昨年…「旭岳」に引き返す途中にスライドしたオジサンではなかろうか?
明日、「トムラウシ温泉」に下山するという夫婦連れは、「死ぬ前に、トムラウシだけは登っておかないと」と、笑っていた。
もう一人の単独のオジサンは、「天人峡」から上がってきて、「日本庭園が、どうしても見たくて」と熱く語っていた。
明日、「南沼」にテントを張るか、「ヒサゴ」に荷物をデポしてピストンするか迷っていた。
「沼の原から、東大雪に抜けます」と言っても、他の宿泊者達の反応は薄かった。
それ程、マイナーなコースなのだ。
しかし、自身の中では…まだ、最終的な行き先は決めていなかった。
明日、とりあえず…「沼の原」まで行ってみるが、天候次第で行き先の変更もあり得る。
「沼の原」で停滞したら、表大雪や十勝への選択肢も採らざるを得ない。
行き先は、天候次第だ。
勿論、東大雪へは行きたいが、拘泥はしない。
悪天候を突いて東大雪を歩いても、楽しくは無い。
週間天気予報では、縦走後半は良さそうだか、過度の期待は…しない。
行き先は、朝起きて空模様を眺めてから決める。
そんな…柔軟さこそが、縦走が「旅」である事、そのもののような気がする。
つづく。
【写真1】バンダナを巻いてる時は、ガチな時
【写真2】ポン化雲手前、長靴とチングルマ
【写真3】化雲ピーク大岩で、D隊員からの餞別デポを受け取った








