宮本武蔵、二刀流の原点は柔。 | 上条武術研究所

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プロレス・サンボ・合気道を経験。
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・自宅ジムを開放(不定期)
・武術系、介護系の同人誌制作

今回から新企画です。

これよね。この本に載っている武術家のエピソードを後世に遺したい。私も知らなかった話がかなりある。
というわけで、それぞれのエピソードの要点だけをまとめたり、今の人に分かり易いように切り口を変えたりして紹介をしていきたいと思います。


『宮本武蔵。二刀流の原点は柔』

宮本武蔵と言えば、二刀流の達人。その原点が柔と言われても納得できないでしょう。
しかし、これは史実である。
宮本武蔵の養子・宮本伊織の『宮本武蔵墓志』によれば、武蔵の父・新免無二斉は十手術の大家であり、【武蔵は父から十手術を学んだが、十手が通用しにくいことから、大小の剣に置き換え、二刀流を編み出した。】との内容が書かれている。
十手術は小具足(取手、捕手)の一種。武具を使えど、いわゆる剣術等ではなく、素手の柔の起源である。

実際、宮本武蔵は13歳の初死合から有名な巌流島に至るまで、二刀流の祖と称されながら、ほとんど一刀で戦い、さらには真剣ではなく、木刀を用いている。
まさに『柔能制剛』の教えであろう。
とは言え、これはフィクションも含めた史料からの考察とも言えなくない。

しかし、もっと具体的に武蔵が柔術をやっていた史料もある。
幕末の国学者・喜多村節信は、随筆『瓦礫雑考』の中で、武蔵の柔術目録を紹介し、それには「柔気」という単語が用いられていた。
また、武蔵と振興のあった野村玄意は、武蔵を『理解ある柔術家』と称している。

武蔵の剣の理合いには【柔】が深い関わりをもっていたことは否めない。

以上。


◯上条補足コーナー。
コラム中に当たり前のように【野村玄意】という名前が出てますが、私は分からなかったんです。
だから、ネットでググって調べますよね?
そんなヤツの情報、ほとんど出て来ないんですよ!

柔氣流開祖・団野万右衛門【1603年(慶長8)~1651年(慶安4)5月28日】の高弟で、六字流刀術を一橋如見斎に学び名人であった。宮本武蔵と昵懇であったという。また、福井藩士・市橋軍兵衛の門弟という記事もある。
これくらいの情報しかない。
しかも師匠が多いな!本人自体が何をした人か分からないし。

とりあえず、野村玄意という人物は江戸時代を生きた福井県の柔術家や剣術家の門弟で、まあ名人と呼ばれるくらいの腕はあったようです。なんで宮本武蔵と仲良くなったんだろう?

あと、六字流刀術というのもググっても、何もヒットしないのでよく分からない。



画像は宮本伊織と宮本一族のお墓。