合気という名称問題の貴重な資料が見れますよ! | 上条武術研究所

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プロレス・サンボ・合気道を経験。
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・自宅ジムを開放(不定期)
・武術系、介護系の同人誌制作

今月の月刊秘伝。

大東流合気柔術の佐川幸義の特集が組まれています。

その記事の中で、もの凄い貴重な資料が見れます。
佐川幸義の特集の本筋には、そこまで関係はない話なんですけどね。
大東流の佐川子之吉氏が、武田惣角の講義内容をメモしたもの。大正2年の時点での【アイキ】の文字。

これは凄い!

どういうことかと申しますと…

まず、【合気道】には2つの名称問題が存在します。

一つは、円和の合気道(光輪洞)との問題。
合気道と言えば、一般的に植芝盛平が創始した武術のことを指しますが、植芝盛平の系譜とは別の合気道流派が存在するんです。それが円和の合気道。
【合気道】という名称はそもそも戦前の大日本武徳会で使われていた名称で、空手や柔道、剣道以外の徒手格闘をまとめた武道のことを指しており、円和の合気道はそちら側の【合気道】の直系流派なのです。
植芝盛平本人も大日本武徳会に関わっていた点がこの問題の正統性の判断を迷わせる要因の一つになっているのですが、植芝が自らの流派を【合気道】と名乗ったのは昭和19年とされています。
つまり、現在、一般的に【合気道】と呼ばれる流派よりも前に【合気道】を名乗っていたとする流派が存在するわけです。
まあ、こちらの問題は今回は関係ありません。
ゴメンなさい。どうしても書いておきたかっただけです…。


今回の画像は、大東流合気柔術と合気道の間に存在する【合気】という名称の問題のほうです。

先ほど、植芝盛平が合気道を名乗ったのが、昭和19年という話をしましたが、それ以前の植芝盛平は、武田惣角から教授された大東流柔術の道場をやっており、ある時から【大東流合気柔術】を名乗っています。元々【大東流柔術】だったものを【大東流合気柔術】という名称にしたのは、植芝盛平とされています。

【合気】という単語がポイントですね。

この【合気】という単語を流派名の中に入れることを植芝盛平にアドバイスしたのは、植芝が入信していた大本教という神道の出口王仁三郎と言われています。

大東流に残る伝書や目録類の発行日から、その順序を整理することができます。

武田惣角が【大東流柔術】を創始する。
→様々な弟子が【大東流柔術】の道場を始める。
→その内の1人、植芝盛平が宗教的観点を取り入れ【大東流合気柔術】を名乗る。
→本家の大東流柔術に【合気】の名称が逆輸入され、植芝盛平は大東流を離れ、【合気道】を創始する。
…となります。

植芝盛平が【合気柔術】を名乗る以前に、他の大東流流派に【合気柔術】を名乗る流派はなく、【合気柔術】という名称は、植芝盛平が元祖であるという説があるわけです。私もこれが定説かなと思います。

しかし、大東流合気柔術側からは「いや、合気という名称自体は元々、流派内にあった。植芝盛平が元祖ではない。」という主張がされています。
で、その根拠となるのが、上に転載させてもらった佐川子之吉氏のメモなんですね。大正2年の段階で【アイキ】の文字が確認できるのです。
これが合気の元祖を大東流とする説です。

一説には大東流の武田惣角は文盲だったと言われており、惣角が関係する直接的な資料が少ないのです。それがこの問題をよりミステリーにさせています。
また余談ですが、大東流(だいとうりゅう)は、惣角は元々『ヤマト流』を名乗っていたが、文盲のために【大和】ではなく【ト】に【東】を当ててしまったために【大東流】という名称になったなんていう説もあったりします。

話を戻します。

あくまで、流派名に【合気】という名称を名付けたのは植芝盛平が元祖であり、大東流柔術内には【合気】という概念自体は存在していた…というのが落としところかな~とは思いますが、【合気】という名称にはこういう問題があるわけです。


そういう背景を知ると、今月の月刊秘伝で紹介されているこの画像は、物凄く貴重で、物凄く興味深い資料なわけです。
興奮しますね。