阪神淡路大震災から30年経つのかぁと。イチローの米国野球殿堂入りが決まり喜び。
あの頃「がんばろう神戸」ってキャッチフレーズで励まし合い助け合いをしていたなぁと振り返る。
震災のことは「不適切にもほどがある!」があるにも描かれている。
夜中の地震は、寝静まっている無防備な心身には勘弁してほしい。
決して慌てることなく、落ち着いて行動したい。
もう日本各地で震度5クラスの地震が当たり前のように発生している。
そして、日本の家屋は強い。
他国ならば崩壊したり、とても住める状況ではなくなるだろう。
けれど、地震の揺れに耐えても火災が発生してしまっては太刀打ちできない。
大地震が発生する時に、どこにいるか?何をしているか?誰といるか?
それは誰にも分からない。だから備える。
「備えあれば憂いなし」
「災害は忘れた頃にやってくる」
忘れてはいけないことわざや言葉ってやっぱりある。
背後から無差別に襲われる死傷事件。
報道を見聞きする度に胸が締め付けられる。
「背後から」「無差別」
「刃物のようなもので」←あいまい報道にも違和感。
いつも思うのは、このような犯人になる人物は身近に予備軍としてたくさんいるってこと。
どうしてそんな人物になってしまったのかは一筋縄では分からないけれど、やっぱり幼少期の生い立ちにあるのではないかと思う。
「愛」って素直に受け取ることもできるし、歪めて受け取ってしまう場合もある。
特に今の時代、個人発信のSNSを当たり前のように利用していることもあり、承認欲求やいわゆる「構ってちゃん」が増えてる傾向にあると思う。とにかく反応がすぐ欲しい。
そして構ってもらえないと気を引くために、とんでもないことをしだす。
そんな単純な仕組みではないかもしれないけれど、要は精神的な部分が幼いままで未熟な者が多いってこと。
仕事でもそう、「大岡越前」の大岡忠相のように「責めは私が取る」と断言してくれる上司がいてくれるなら良いけれど、個々の集まりのような会社じゃ将来性はないし、若者も育っていかない。
若者もまた、どっかり腰を据えて働こうという会社に出会えないと転職を繰り返し、長いものに巻かれる気などさらさら起こらない。
今の日本は子供は大学もなんとなく入って出て、親は学費を稼ぐために必死こいて働く。
それだったら義務教育を終えた時点で、就職をするか高等教育の段階で将来を考えた道に進むとか、国も将来を担う若者の人財育成を真剣に考えないとダメだ。
外国人労働者にばかり頼る体制はそろそろ卒業しないと。国益に繋がらない。
誰しも他人事のように捉えがちなことも、実は周り回って自分に返ってきたりする。
そうやって「明日は我が身」と気を引き締めて毎日を生きてゆきたいものだ。