Saules Aveugles, Femme Endormie(2022 フランス、ルクセンブルク、カナダ、オランダ)

監督/脚本:ピエール・フォルデス

原作:村上春樹

出演:ライアン・ボンマリート、ショシャーナ・ビルダー、マルセロ・アロヨ、スコット・ハンフリー、アーサー・ホールデン、ピエール・フォルデス

①複数の短編で長編を作るという手法

5日間震災関連の報道をテレビで見続けたあげく、小村の妻は「あなたには私に与えるものが何もない」という書き置きを残して姿を消します。小村は有給休暇をとり、同僚から旅行を勧められ、釧路に荷物を届けることを頼まれます。

一方、片桐が家に帰ってみると、かえるくんが彼の帰りを待っています。かえるくんは次の震災を防ぐため、力を貸して欲しいと片桐に頼みます…。

 

村上春樹作品の実写映画化は、近年では日本の「ドライブ・マイ・カー」、韓国の「バーニング 劇場版」があって、どちらも非常に評価の高い作品でした。

今回は初のアニメ映画化。フランスのアニメーションです。

上記2作が同じく短編を原作としながら、1本の作品を長編に膨らませていたのに対して。

本作は、複数の短編を組み合わせて、連作的な長編作品にしています。

 

複数の短編なのだけど完全なオムニバスではなく、本作では複数の短編の主人公を同じ人にして、連続する物語として再構成してあります。

(「かいつぶり」(1981)、「めくらやなぎと眠る女」(1983)、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(1986)、「UFOが釧路に降りる」(1999)、「かえるくん、東京を救う」(1999)、「バースデイ・ガール」(2002)の6つの短編)

それって、考えてみれば相当乱暴なことです。本来、テーマも様式も異なる別の作品を、強引に同じ連なりの中に落とし込んでいる訳だから。

 

村上春樹作品はどれも一種独特な「村上春樹的」トーンがあって、一人称である主人公のムードもだいたい同じで、テーマ的にも共通項があるように感じられるので、こうして並べてみてもツギハギ感はない。きれいに馴染んでいるようには、見えるのですが。

観ていて、微妙な違和感を感じなくもない。……という気もしました。

そのあたりをどう捉えるかで、受け止め方は違ってくるような気がします。

 

②初期村上春樹的テーマと、そこからの変化

主人公の一人、小村の物語は、「UFOが釧路に降りる」「めくらやなぎと眠る女」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の3つの短編で構成されています。

この3つの作品にまず共通するのは、主に初期の村上春樹作品に見出すことのできる、次のようなテーマだろう…と思います。

 

主人公が、彼に生来備わっている何らかの欠落、あるいは鈍感さによって、近くにいる誰かを決定的に傷つけてしまう。

その傷によって誰かは主人公の前から姿を消す。

主人公は深い喪失感の中に取り残される。

 

「ドライブ・マイ・カー」「バーニング」も、そのようなテーマを含む映画だったと思います。

何の問題もないと思っていた妻に突然浮気され、何もできずそのまま妻を失ってしまう「ドライブ・マイ・カー」の主人公は、「あなたには私に与えるものが何もない」という書き置きを残して妻に去られる本作の主人公・小村と共通しています。(「UFOが釧路に降りる」

「バーニング」の主人公も、自分自身の鈍感さによって目の前の人を傷つけ、喪失しているというのが(表面的にはそうじゃないかもしれないけど)僕の解釈です。

 

小村の物語にくっつけられた二つの短編「めくらやなぎと眠る女」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」も、自分自身が持っている他者への加害性に気付かない主人公が、やがて喪失に至る物語であると言えます。

前者は長編代表作「ノルウェイの森」に繋がる物語ですね。青春期の深い傷を、大人になっても引きずる話。

後者は原作では「電話をかけてきた女性が誰かに気付かない」という「鈍感力発揮」シーンがあるのだけど、映画ではその辺りが省略されているので、この部分はやや意味が分かりにくくなっている気がします。

 

ただ…初期作品である「めくらやなぎ」「ねじまき鳥」と、「UFOが釧路に降りる」との間にはかなり大きな時期的な差があって、そこに込められた作家的なテーマ性も、大きく変化を遂げています。

「めくらやなぎ」と「ねじまき鳥」では、不穏は常に主人公の内面世界に存在するのに対して、「UFO」は主人公が外部にある不穏と対峙する物語なんですよね。

③想像力の中で行われる闇との戦い

もう一人の主人公、片桐は、ハゲで小太りの冴えない男。

こちらは複数の物語ではなく、「かえるくん、東京を救う」のみで構成されています。

片桐の造形は、小村が外見も村上春樹に似せて造形されているのと対照的です。

凡庸なサラリーマンとして「誰からも評価されない仕事」をこつこつと続けてきた片桐。

火曜日の昼にスパゲッティの茹で方にこだわったり、午後の芝生で昼寝をしたり、釧路で会ったばかりの女の子とベッドインしたりする男ではない。社会に属してまじめに生きる、普通の人。

つまりは村上春樹の典型的主人公とはまったく異なる「市井の人」です。

 

阪神淡路大震災(と、それに続けざまに起きた地下鉄サリン事件)は、村上春樹にとっての転換点だったと思われます。

個人的な内省のみに向いていた視点を、社会的事象に向けるきっかけになったのが、そこですね。

地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした「アンダーグラウンド」のようなノンフィクションや、震災をテーマにした「神の子どもたちはみな踊る」のような短編集が、その時期に生み出されています。

(「UFOが釧路に降りる」と「かえるくん、東京を救う」はその短編集収録です)

 

村上春樹的「クールな諦観」に満ちた小村と違って、凡庸ながら善良である片桐という男は、次の震災を起こすみみずくんに勇敢に立ち向かいます。かえるくんと共に。

多くの人々の命を救うために、東京の地下に潜む恐ろしい怪物に立ち向かう。その様はまるで「すずめの戸締まり」のようです。真っ当なファンタジーのようでさえある。

ただし、その手法は観念的です。戦いはあくまでも、眠っている片桐の深層心理の中で行われ、終わります。

 

すべての戦いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます。(「かえるくん、東京を救う」より)

 

恐ろしい自然災害に引き続いて出現した、人の心の闇が引き起こした恐ろしい人為的災厄である地下鉄サリン事件。

そういった闇に対して(以前のように傍観者の立場に立つのではなく)積極的に立ち向かい、戦おうとする。

「かえるくん、東京を救う」はそんな作家の強い思いを反映した作品だと思えるし、だからかえるくんと片桐は想像力という作家ならではの方法で戦う訳ですよね。

④映画から抜け落ちたオウムという要素

原作と映画の大きな変更点が、阪神淡路大震災を東日本大震災に変えてあることです。

今作る映画なのだから、最新の震災にあわせるのが当たり前…ではあるのですが。

でも、これは結構大きな変更です。

この変更によって、「UFO〜」と「かえるくん〜」にある「震災後」が、同時に「オウム真理教による地下鉄サリン事件前」でもあるという大事な設定が消え去ってしまっているからです。

 

上に書いたように、「かえるくん」において善良な凡人がかえるくんと共に災厄に立ち向かわなけれればならないのは、震災をただ自然災害と捉えるのにとどまらず、人の心の闇がもたらした大きな災厄と結びつける視点があるからこそ…ですね。

想像力が武器になるのも、だからこそであって。人の心が引き起こす災厄への抵抗だからこそ、心の力で対抗しようとする訳だから。

 

東日本大震災になることで、この要素がきれいさっぱり消えることで、本作における様々なメタファーはかなり意味が欠け落てしまっている

もちろん、オウムの不穏さはまた別の形で現在にも満ちている訳だけど。少なくとも、原作の持つテーマ性は分かりにくくなってるんじゃないかな…と感じました。

⑤「蜂蜜パイ」の話

以下、余談ですが。

今回、あらためて「神の子どもたちはみな踊る」を読み返してみたのですが。

すごく気になったのが、短編集の最後を飾る「蜂蜜パイ」という作品です。

これ、作家である主人公と、学生時代からの親友である男、そして一人の女性…という3人の関係性を描く話なんですね。

ある種のいびつな、三角関係の物語。これ、「めくらやなぎと眠る女」と共通する設定です。ということは「ノルウェイの森」とか、初期作品で特に描かれた関係性。

 

主人公は女性を愛しているのだけれど、親友が彼女と付き合ってしまう。主人公は女性の幸せを第一に考え、それに対して何もしない。

…でも、そのような主人公の「優しさ」が、かえって彼女を取り返しのつかないほどに傷つけてしまう…というのが、初期作品でよく描かれていたことでした。

 

「蜂蜜パイ」ではそれとよく似た状況が描かれていくのですが、物語の最後に主人公は親友と離婚した彼女に「夜が明けたら結婚を申し込もう」と決心します。

「蜂蜜パイ」の終わりの方には、こんな文章が出て来ます。

 

これまでと違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかり抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を。(「蜂蜜パイ」より)

 

「ねじまき鳥」ではなくて「蜂蜜パイ」の方が、本作の締めくくりにはふさわしかったんじゃないかな…などと思ってしまいました。