Oppenheimer(2023 アメリカ)

監督/脚本:クリストファー・ノーラン

製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローベン、クリストファー・ノーラン

製作総指揮:J・デビッド・ワーゴ、ジェームズ・ウッズ、トーマス・ヘイスリップ

原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン

撮影:ホイテ・バン・ホイテマ

美術:ルース・デ・ヨンク

編集:ジェニファー・レイム

音楽:ルドウィグ・ゴランソン

出演:キリアン・マーフィ、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー、ディラン・アーノルド、デビッド・クラムホルツ、マシュー・モディーン、ジェファーソン・ホール、デベニー・サフディ、デビッド・ダストマルチャン、トム・コンティ

 

①事前知識は不要!

赤狩りの時代。「原子爆弾の父」ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)は、ソ連のスパイと疑われ、公聴会に出席。自身の過去について話し出します。気鋭の物理学者だったオッペンハイマーは、ジーン(フローレンス・ピュー)キティ(エミリー・ブラント)と恋仲になりつつ、アメリカ陸軍のグローヴス(マット・デイモン)によって原子爆弾を開発するマンハッタン計画に抜擢されます…。

 

クリストファー・ノーラン監督、「難解さ」がトレードマークみたいなところがあります。

前作「テネット」なんて、僕は何回も観に行って9本も解説記事を書いたけど、それでもまだわからないという。

わからないのが面白い。難解さをエンタメに転換する。そんな特異な作風。

 

それに比べれば、今回は格段にわかりやすい、とっつきやすい映画でした!

最初こそ、少し戸惑うのですが。テンポが速く、時制が入れ替えてあって、いくつもの異なる時制がポンポンと入れ替わるので。

でも、基本的には事実に沿った物語なのでね。理解に苦しむようなところはない。

複数の時制も、観ているうちに把握できるようになっています。

 

本作の時制は大きく3つ。

は、戦後、赤狩りの時代。共産主義者であることを疑われたオッペンハイマーが審問を受けるパート。

は、同じく戦後。オッペンハイマーの仕事仲間だったストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の視点で描かれるパート。

はどちらも戦後のシーンなのですが、②はモノクロなので区別しやすくなっています。親切。

 

は、この映画のメインになる部分。学生時代から教授時代、マンハッタン計画の責任者になってロスアラモス研究所の所長となり、「原爆の父」と呼ばれるに至るオッペンハイマーの半生の物語。

ここは基本的に、のパートのオッペンハイマーが回想している形式になっています。

 

多くの実在の人物が入り乱れ、細かな説明なくハイテンポで流れていくので集中力は要します。

ですが、実在の人物や事件についても、映画の中で描かれる範囲だけで、だいたいはわかる。特に事前の知識などは必要ないと思います。

 

むしろ、知識はない方がいいかな。

僕はほとんど知識なかったので、例えばストローズが何者なのかとか、最初のうちまるっきりわからないのだけど。

観ていくうちに、少しずつその正体や隠した思惑が見えてくる、ミステリ的な面白みがあります。

だから本当、構えずまっさらな状態で観るべき映画じゃないでしょうか。

 

②「風立ちぬ」と共通する“業”

本作を観ながら、早い段階で連想した映画があります。

宮崎駿の「風立ちぬ」

本作は、「風立ちぬ」と非常に近い構造を持った映画だと思います。

 

どちらも、生まれながらに人より抜きん出た“天才”の物語

その時代、その分野で飛び抜けた才能を持っていたために、人類史において大きな節目となる「負の遺産」…結果的には大きな不幸をもたらす兵器を発明してしまう男の物語です。

 

「風立ちぬ」の二郎は「小型・軽量の高性能戦闘機」零戦を開発し、零戦は結果的に特攻に使われ、多くの若者を死に追いやることになります。

本作のオッペンハイマーは原子爆弾を発明し、原爆は広島と長崎に大きな悲劇をもたらし、更に東西冷戦、世界滅亡の危機にまでも繋がります。

 

二郎もオッペンハイマーも、決して悪意を持っていた訳じゃない

「世界に害をなしてやろう」と思って零戦や原爆を作った訳ではありません。当たり前ですが。

また一方で、「世のため人のためになろう」と思って作った訳でもないんですよね。

いや、もちろん「戦争に勝つため」とか「国の威信のため」とか、大義名分としての動機はあるのだけど、でもそれは多分に建て前で。

彼らが新しい画期的なものを作ったのは、ただ「彼らにはそれを作ることができたから」。それが大きいと感じるのです。

 

二郎は幼少期から、「空を飛ぶ機械」を思い描き、夢に見てきました。

まだ十分な知識や技術を身につける前から、二郎は「自分には飛行機を作ることができる」という明確なイメージを持ち続けています。

何の根拠もまだなくても、最初からそう信じている。それがすなわち「天才」ということだと思うのですが。

 

オッペンハイマーも、微小な原子の世界の営みを、幻視のようなイメージとして見ています。

理論を学び、研究を深めていく過程は、あらかじめ心に描いていたイメージを実証していく過程に他ならない。

こんなふうに「あらかじめ見える」というのが、その分野を切り拓く才能があるということなんですよね。

 

そして、そんなふうに「見えてしまった」以上は、それを現実に出現させなくてはいられない。

だって、自分にはそれを実現させる能力があるのだから。

それを実現させることは、むしろ世界に対しての義務であるとさえ思える。

…というのが、二郎とオッペンハイマーに共通する「天才としての資質」であり、そして結果がどうなるかに関わらずに突き進んでしまう「科学者のエゴ」だと思うのですよ。

③モノづくりの興奮と、科学者のエゴ

「風立ちぬ」でもそうだったように、仲間と力を合わせて何かを作っていく過程は楽しいものです。

たとえそれが原子爆弾であっても。オッペンハイマーを中心に気鋭の科学者たちが力を合わせて、「新しいもの」を作り出していく描写は、やはり高揚感がある。

観ていても興奮させられてしまいます。

 

本作は「モノづくり映画」としても秀逸で、観ていてワクワク、興奮させられるんですよね。そこはやはり作り方が上手い。

研究者たちが試行錯誤しながら、未知の何かを作り出していく。「プロジェクトX」的な熱気に高揚させられる。

 

それだけに! 観ていて、足元がぐらつくような不安な気分にもなってくる。

本作ではその完成がそのまま「広島と長崎」に繋がることを誰もが知っているので。

それが完成に近づくほど、「モノづくり映画」的な興奮が高まると同時に、最悪なことが進行しているという不安と恐怖も高まっていくという。実に巧妙な作りです。

 

オッペンハイマーはじめ、科学者たちの間にも、ジレンマは最初からあるんですよね。

自分たちが作っているものが大量破壊兵器であることを、彼らは最初から知っている。

とりあえずそこに目をつぶっていられるのは、「ナチスより先に作らねばならないから」という言い訳があるから。

ユダヤ人を虐殺するナチスという絶対悪の存在で、とりあえずすべては免罪されている訳です。

 

だから、完成より先にナチスが崩壊してしまった時、彼らは言い訳を失ってしまうんですよね。

本来ならそこで立ち止まるはずなんだけど。でも、もう止まれない

「まだ日本がいる」「我々が作らなければソ連が作るかもしれない」と言った言葉で正当化して、最後まで突き進むことになります。

 

でもやっぱり、これは言い訳なんですよ。開発を正当化するために、自分自身をも誤魔化すための言い訳に過ぎない。

結局のところは、科学者としての、開発者としての、天才としての業。

「作れるとわかってしまったものは、作りたい。まだこの世に存在しないものを、この世に生み出してみたい」という、科学者としてのエゴ。

そこに尽きると思うのですよね。

 

ノーランが上手いのは、こういうことをすべて言葉で説明することはしない。

表面的には、「建て前と言い訳」だけが画面には描かれていく訳です。彼らが実際に口にしたり、態度に表すのは「建て前と言い訳」だけですからね。

原爆は戦争を終わらせるためである、だから平和のためなのだという、建て前。

オッペンハイマーたちがやっているのは、平和のための努力なのだという、建て前。

自分たちがやらなければ他がやる、だから仕方がないのだという、建て前。

 

そんな建て前のもとで、実験へ向けての盛り上がりが描かれていき、実験成功の興奮が描かれていく。

原爆の目標を決める能天気な会議が描かれ、日本の降伏に熱狂するアメリカの民衆たちが描かれる…。

でもその中で、映画全体の描写を通して、「建て前の奥にあるもの」がじわじわと伝わってくる。

オッペンハイマーの、言葉にできない葛藤。表立っては決して言えない本当の動機

そして、それを自分でわかっているからこその大きな悔恨罪悪感

言葉にできない様々な物事が伝わる。これはまさに「映画」にしかできないことです。

④全体で伝わる核兵器の恐怖

本作で「言葉で説明されない」のはもう一つ、非常に大きな、重要な要素があります。

核兵器の恐怖。

本作には広島・長崎の直接描写はなく、出てくる人たちは基本的に原爆に肯定的で、核兵器の恐怖を直接言葉で語る場面は非常に少なくなっています。

 

でも!本作は最初から最後まで徹底して、「核兵器の恐怖」を描いている映画ですよね。

本作を観て、核兵器の怖さを感じない人はいないと思います。

 

冒頭から「プロメテウスの火」に例えて提示される、人類には扱い切れない大きすぎる力としての、核の恐怖。

「大気に引火して、世界が滅びる」可能性が「ゼロではない」段階で、「まあ大丈夫だろ」で実験へ突き進む科学者たち。結構最初の方で提示されたこのリスクは、結局実験の瞬間まで変わらないままなんですよね。

我々が今滅んでいないのは、単に幸運だったに過ぎないということ。

 

本作はノーランの映画だから、いちばん大事なことは言葉ではなく、映像と音響で伝えられます。

いわゆるピカドン。恐るべき閃光と、そして轟音。

劇場の映像と音響を通じて、それが体に直接伝わる。

トリニティ実験のシーンは本当に「めちゃめちゃ怖いシーン」だったし、そのシーンが成功を喜ぶ人々の熱狂の場面に繋がるのも絶望的な怖さを感じます。

 

もっとも直接的なのは、戦後にオッペンハイマーが熱狂する人々の前で演説をするシーン。

そこで見る、閃光が輝き会場の人々が焼き尽くされるビジョン。

黒焦げの遺体を踏む描写まであって、もうここだけで広島と長崎の直接描写に匹敵するものになっていると感じました。

 

本作で広島と長崎の光景を直接的に描かなかったのは、あくまでもオッペンハイマーの視点にこだわったからでしょう。オッペンハイマーは、実際の現場の惨状を見てはいないのだから。

現場を直接に見なくても、想像することはできる。

あんな恐ろしい爆弾を何万人もの人々が暮らす街の上で使ったら、どういうことになるか。想像することができないはずがない。

ましてや、オッペンハイマーはその爆弾の効果も原理も知り尽くしている訳で。

想像していないとしたら、それはただ目を背けて見ないふりをしているだけでしかない。

 

そして、本作が想定するメインのターゲットであるアメリカ人の観客も、その多くが広島と長崎で何が起こったのかを見たことはない訳です。

いまだに多くのアメリカ人が、戦争を終わらせるために原爆投下は正しかったという見方をしている。そんな現状がある。

そんなアメリカ人の観客に対して、でも想像することはできるでしょう?と突きつけているのが、本作であるのだと思います。

そして本作を観てしまった以上、もう想像せずにはいられない。誰しもが、オッペンハイマーが感じた恐怖と罪悪感を我がものとして共有させられることになります。

 

だからね。本作は明確に反戦・反核の意思を持った映画だと思うし、原爆の悲劇、アメリカの罪にも真摯に向き合った映画だと思うのですよ。

観て素直に思ったのは、「本作を日本で公開することに問題があるとなぜ思ったのか、わからない」でした。どの段階で誰がそれを決めたのか知らないけど、ちょっと見る目がなさすぎるんじゃないかな。

⑤作った人だからこその変化

「この世にまだないものを作る」という熱狂が去った後で、自分が作ったものがもたらした結果に直面し、オッペンハイマーの考え方が変わっていく。

「風立ちぬ」では完成と共に映画が終わってしまうので、二郎の悔恨は夢のシーンを通して描かれつつも、彼が「変わる」ことは描かれないのだけど。

(「風立ちぬ」はそこが主題の映画ではないので)

本作では、戦後のオッペンハイマーを描く①と②のパートを通して、変化が描かれていきます。

 

オッペンハイマーは共産主義者の疑いをかけられ、赤狩りの対象になるのですが、それは水爆の開発に反対したから。

これは、アメリカの政治家や軍人たちからは不自然に見えるんですよね。

原爆を作ったくせに、水爆には反対するなんて筋が通らない。

世界を滅ぼすリスクなら原爆も同じなので、今さら水爆に反対しても意味がない。

ソ連などの他国が水爆を持つ可能性は高いのだから、こちらも水爆を持たねばならない…などなど。

 

オッペンハイマーは自身が「パンドラの箱を開けた」ことを自覚していて、だからこそ恐怖しているのだけど、その感覚は政治家や軍人には伝わらないんですよね。

政治家や軍人にとっては、原爆も水爆も「ちょっと性能の良い兵器」に過ぎない。通常兵器と、世界を破壊する可能性のある兵器の違いがわからない。

だから「手が血塗られたと感じる」と言うオッペンハイマーを、トルーマン大統領は馬鹿にして泣き虫呼ばわりする訳です。

科学者が科学の視点で理解する「違い」が、説明しても理解されない。大事なことが通じないまま、取り返しのつかない政策が決められていってしまう。その泥沼でもがくような恐怖、もどかしさ。

 

政治や軍事の中にあっては、科学者の感じる危機感や恐怖は理解されない。どこまでも、ただ利用されるだけでしかない。

私欲のために都合よく利用しようとする代表がストローズで、彼の個人的な憎悪とプライドによってオッペンハイマーは追放され、アメリカは水爆開発に舵を切っていくことになります。

 

オッペンハイマーが一貫してるのは、核兵器を使う政策ではなく、水爆を作ることに反対していることですね。

つまり、彼は科学者だから。

原爆を作ってしまった科学者として、より強力な爆弾を作ることに反対している。

「たとえ作れるとしても、作らないことを選ぶ」べきだと言っている。

これ、オッペンハイマー自身はできなかったことなんですよね。だから「ムシのいい話」でもあるのだけど。

⑥アインシュタインとパンドラの箱

そこでキーパーソンになってくるのが、有名なアインシュタイン博士(トム・コンティ)です。

本作の中でのアインシュタインは、科学の理想を体現する存在として描かれているようです。

本作の中で科学者が、「人類の叡智の集大成がこんな爆弾なのか…」と嘆くシーンがあります。オッペンハイマーは例によって、建て前でそれに応えるのですが。

それに対して、本来はそうあるべきだった科学を象徴するのが、アインシュタイン。

 

オッペンハイマーから「世界を滅ぼす可能性のある数式」を見せられたアインシュタインは、「その数式を世界に共有すれば、誰も核兵器を開発しなくなる」と言います。

本当にそんな理想的な展開になったのか…どうせ誰かが抜け駆けしたのか、わかりませんが。

でもそれは、もしかしたら世界が破滅へ向かわなくて済む可能性への、唯一の分かれ目だったかもしれない。

しかしオッペンハイマーはそのアドバイスを聞かず、「世界はもう壊してしまった」と告げて、アインシュタインを怒らせることになります。

 

科学は人類を進歩させる。でも、科学はパンドラの箱を開けてしまうことがある。

未知の危険を恐れるあまり、科学をやめてしまうこともできないけれど。

でも一方で、世界を危険に晒すような無軌道な科学が、制限なく認められるべきでもない。

そのジレンマは、答えの出ない、科学にずっとついて回るものだと思いますが。

少なくともオッペンハイマーは、水爆を作らないということは選んだ訳ですね。それが贖罪としてはまるで不十分だとしても、偽善だとしても、少なくともそれだけは選んだ。

 

このテーマは決してアメリカだけの問題でもなく、例えば日本だって、あの事故を体験してなお原発を使い続けるのかどうか?ということは問われている訳です。

我々が生きているのは、オッペンハイマーがパンドラの箱を開けてしまった世界。そこでどう生きるか? すべての人に突きつける映画だと思います。