福田村事件(2023 日本)

監督:森達也

脚本:佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦

企画:荒井晴彦

統括プロデュ―サー:小林三四郎

プロデュ―サー:井上淳一、片嶋一貴

撮影:桑原正

編集:洲崎千恵子

音楽:鈴木慶一

出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、コムアイ、松浦祐也、向里祐香、杉田雷麟、カトウシンスケ、木竜麻生、ピエール瀧、水道橋博士、豊原功補、柄本明

①長い前置き

関東大震災が起こったのは、1923年9月1日。

2023年9月1日に、100周年を迎えました。

 

正直、関東大震災については詳しく知らなかった。

「風立ちぬ」で描写されていたとか、「帝都物語」とか、ドラマの背景に出て来た程度の知識しかなかったのですが。

このところ100周年に合わせて特集などを目にすることが多くなっています。

 

震災に伴って起こった「朝鮮人虐殺」についても、学校で習った記憶があるし、当然のように語り継ぐべき負の遺産…という印象を持っていたのだけど。

最近、それを存在自体から否定する動きもあるんですね。ちょっとびっくりしたのですが。

松野官房長官が朝鮮人虐殺についての記録が政府内に「見当たらない」と述べたり。

小池都知事が朝鮮人犠牲者慰霊祭に追悼文を送らず、虐殺の事実は「歴史家にゆだねる」というような物言いをしたり。

 

まあ一般の、偏った考え方を持つ人の中に、日本に不利な事実を否定したいと考える人がいるのはある程度仕方がないことだと思うのだけど。

でも、それが政府の官房長官や都知事だと言うのは。

さすがに、ちょっとこの国は今、おかしくなってきている…と思ってしまいます。

 

細かい経緯とか規模とか、そういうところで議論をするのはもちろんあっていいと思うのだけど。

でも、虐殺と呼ぶに足る出来事が実際に起こったことは、当事者の証言からも明白である訳じゃないですか。

多数の報道もあるし、当時生きていた人々の証言もあるし(芥川龍之介とか、著名人の目撃証言ももちろんある)、それを行政が後でまとめた報告書もたくさんある。

あるからこそ、教科書に載っている訳で。

 

それこそ、「福田村事件」という事件が実際に起こっていて、それは「朝鮮人に間違われた日本人が殺された事件」なんですよね。

デマに扇動された暴徒によって、朝鮮人に間違われた日本人が殺される事件が起こっているのに、朝鮮人が殺される事件は起きなかったなんて、考えるまでもなくおかしいってわかりますよね。

 

だから、起こったことを否定するなんてことは、どだい無理なことであるはずなんですよ。

無理であるはずなのに。それを、政府とか都知事とか、この国のど真ん中にいる人たちが、堂々としらばっくれてしまえるんですよね。

彼らは「なかった」とは言っていない。「あったことは明確に確認できない」と言っている。

それはまあ、そうなんですよ。過去を見に行くことはできないから。

でも実際のところ、そんな物言いには本当は何の意味もない。そんな「疑念」は、歴史上のあらゆる現象に対して言えてしまうので。

 

意味のない戯言であるはずなんだけど。でも、彼らがこういう物言いを重ねていくと、あたかも朝鮮人虐殺は「あったかもしれない、なかったかもしれない、両論併記が望ましいこと」であるかのように、印象操作されてしまうんですね。

いや、だって僕も調べましたからね。いくらなんでも官房長官や都知事がそんないい加減なことは言わないだろう…と思うから、えっ本当にそんなあやふやな事実なの?と思って、慌てて検索したり調べたもの。

そんなふうに調べればいろいろとわかってくるけど、調べなければ、ああ両論併記なんだなあ…とぼんやり思うだけな訳で。

そんなふうにして、人々の歴史認識はうまいこと、ある特定の人たちが望む方向に書き換えられていくのです。

 

だから、僕はこの辺の、官房長官や都知事の言動は相当に危ういと思うし、それに対して有効な打ち消しが生じていない現状も怖いと感じます。

ふわっとした印象というのは意外に強力なんですよね。「両論併記」って公平に見えて、一見もっともらしいので。

いやいやそれは全然公平なんかじゃなくて、あったことを捻じ曲げているだけだよ…というのは、なかなか伝わりづらい。

学問の世界で歴史を扱うプロの人がもちろん反論してくれているのだけど、そういうのはやはり一般には浸透しづらい。政治家がこう言ったというニュースを打ち消す力はなかなか持たないので。

 

だからもう本当にコツコツと、ドキュメンタリーやフィクションなどの表現を通して、あったことをあったと語り継いでいくしかない…ということになるんですよね。

そんな現代だからこそ、ビッグネームのキャストによって「娯楽映画」として作られた映画「福田村事件」が公開されるのは、実に意義のあることではないかと思います。

 

②丁寧に描かれる虐殺に至る日常生活

ある苦しみを抱えて朝鮮から日本に帰ってきた澤田智一(井浦新)は、妻の静子(田中麗奈)と共に郷里である千葉県福田村に戻ります。同じ頃、沼部新助(永山瑛太)率いる薬売りの行商人たちが香川を出発していました。新助たちが千葉県に入った9月1日、関東地方を巨大地震が襲います…。

 

震災以前から、実際に福田村で​虐殺が起こるまでの数日を、時系列に沿って、複数の視点から丁寧に描いていく作品です。

当時(大正時代)の一般の人々の暮らし、営みが描かれる中で、戦争へ向かう時代の閉塞感や、当時の人々が普通に持っていた差別意識が描き出されていきます。

 

大正という時代…デモクラシーも入ってきているけど、古い因習も生きていて、軍国主義が拡大していく時代の混乱が、様々な立場の人たちの目を通して描かれていく。

民主主義を大事にしようとする村長(豊原功補)と、軍服を着て威張っている在郷軍人(水道橋博士)たちの軋轢。

目で見た事実を報道しようとする若い記者(木竜麻生)と、政府の通達に従おうとする編集長(ピエール瀧)との軋轢。

朝鮮人が差別され殺される「実態」を見てきた智一(井浦新)と、それを知らない、朝鮮人を恐れている村人たちとの軋轢。

 

村人たちにしても、知らないだけなんですよね。本当のことを知らない。宣伝されることしか知らない。

大地震があって大火災があって、多くの人が死んだり焼け出されている状況で、「朝鮮人が襲ってくる」なんて聞かされたら、そりゃ怖い。怖いから、過剰な自衛に走ってしまう。

でもその背景には、朝鮮での独立運動の弾圧、それに連動して激化する国内での抗議活動と、それを封じ込めたい政府の思惑があって。

 

自分たちが混乱して怯えている状況で、朝鮮人だって同じように被災して混乱して怯えているのだから、そんな組織だった破壊活動なんてできるわけがない…ってちょっと考えたらわかりそうなものですけどね。

でも、こういう時に人は「悪者」を求めてしまうのでしょう。

家が燃えていくのを見せられたら、誰かが火をつけたという考えに飛びついてしまう。やり場のない怒りは辛いから、わかりやすい敵を欲する。

 

当時の世情や人々の暮らしをじっくりと描いて、虐殺に至る背景を描いていく。

一方的に糾弾するのではなくてね。とても丁寧な描き方だったと思います。

③自由な女たちと臆病な男たちの対比

そういう、事実を丁寧に伝えなければならない作品の場合、どうしても無味乾燥なドキュメンタリーのようになりがちなのだけど。

本作は劇映画としても、とても見応えがある。

人間味のある、生々しい人間ドラマが展開していきます。

 

夫を戦地にとられ、気持ちと体を持て余してしまう咲江(コムアイ)と、夫がショックを受けて腑抜けになり、なおかつこんな田舎に連れてこられて、気持ちと体のやり場がない静子(田中麗奈)

その二人(二人とも!)を引き受けるのが、利根川の渡しをしている倉蔵(​東出昌大)で、これが見事な適役で。

 

メロドラマ的な性愛を絡めるのは、脚本の荒井晴彦氏の傾向だろうな…とは思いますが。

しかし、この性の要素が上手く本作を「事実のスケッチ」に終わらせず、「映画」にすることに貢献していますね。

軍人でもないのに軍服着て威張ってる(そのくせパニックになるほど怯え切ってしまう)男たちと、不自由な時代にあっても精神はやたらと自由な女たちの対比。

 

咲江にしても静子にしてもやけに奔放で、大正時代にこうなのか?とちょっとびっくりしたりもするのですが。

でも、昔の日本の方がむしろ、性に関しては自由だった印象もありますね。

田舎は特に、夜這いとか。混浴とか。規律や男尊女卑の締め付けは、軍国主義と共にやって来たものでもある。

田中麗奈もコムアイも魅力的で、二人とも現代的な美人だけど、ちゃんとどこか大正時代の女にも見えるんですよね。その場所に、確かに息づいている感じがする。

 

本作のMVPが東出昌大で、こういう悪気ないけど悪い間男の役は本当に板についてますねこの人。

常に半裸に近い、日に焼けた筋肉質な体で、船を漕ぐ。そりゃ女たちもよろめいてしまう…という。

 

倉蔵は一人だけ村はずれで渡し船を漕いでいて、村の人々からはちょっと離れているんですね。はぐれ者であり、アウトロー。そういう立場の必然として、ちょっと差別されてもいる。

村と、その外側を区切る境界に位置して、内と外とを行き来している。

村になじめない静子は倉蔵のもとにやって来て、内と外とを行ったり来たり。「ここではない何処か」へ行けるかもしれないと夢見つつ、でもやっぱり帰ってきてしまう。

 

「不倫」は現代の目で見ても(現代の目で見てこそ?)許されないし、だから罵倒され蔑まれ、袋叩きにあうのだけど。

本能の求めるままにやむにやまれずそうなってしまうのは、軍国主義や階級意識とは対極にある、人間らしさの現れであるとも思えるんですよね。

④現代に通じる「勇ましい人」のリアル

福田村のような田舎の農村であっても、人々の暮らしがあれば、そこにヒエラルキーが生じてきます。

軍服着たじいさんたちが威張り、それに追随する連中もまた軍服を着て、威張る側に回ろうとする。

女は男から低く見られ、戦争に行かない男も蔑まれ、倉蔵みたいなはみ出し者も差別される。

そして人々のそんな習性は、被差別部落民や朝鮮人を差別することは「可」とする政治制度を背景にしている訳ですね。

 

田舎の庶民同士で、ちっちゃいところで差別したりされたり、そんなことしなくても良かろうに…と思うんですけどね。そうなっちゃうのは人間の性みたいなものなんでしょうか。

新助(永山瑛太)率いる薬売りの行商人たちは被差別部落の人々で、日本においては最底辺の人たち。

彼らの生き方がリアルに描かれているのも、実に興味深かったです。考えてみれば、めったに物語で取り上げられることのない人たちですね。

彼らにしてもただ「かわいそう」ではなく、強く、図太く生きている様子が描かれていきます。

 

一方の差別する側には、「勇ましさ」の呪縛みたいなものがあって。

例えば長谷川秀吉(水道橋博士)なんて、気の小さな小男で、同年輩で村長になった田向や朝鮮に渡った智一と比べても、冴えない人物だっただろうと思うのですが。

軍服着て勇ましいことを言ってると、なんか偉くなった気がしちゃうんですよね。

別に本人は何も成し遂げていないし、何も偉くなっていないのに。

 

自分には何もないから、威張ることだけが自分のアイデンティティだから、ますます威張る。威圧的になり、冷笑的になり、残虐になっていく。

勇ましいことを言い続けていないと自分を失うから、エスカレートしていく。

タチが悪いのは、悪意ではないんですよね。本人は正義だと思ってる。

正義だと思い込んでるから、周りの忠告を聞かない。勢い余って暴走して、一線を超えて、気がつけばハシゴを外されて、途方に暮れて泣いちゃう。

今、ネットにゴマンといますよね、こういう人。

 

水道橋博士って、本来はそういう面倒なネット民に普段絡まれて大変な側の人だと思いますが。

自分の思想と正反対の役を、見事に力演/怪演していました。

思想としては正反対だけど、正義に向かう熱量はよく似ている…ような気がする。どっち向きに戦うかの違いで、一歩間違えばこうなるかも、という…。

それだけに、これ本人も結構しんどかったんじゃないかな…。だからこそ鬼気迫るものになっていたと思う。意外だけど秀逸なキャスティングです。

⑤ホラーの文法で描かれる虐殺シーン

キャラクターは割と勧善懲悪で、主人公サイドの人たちは虐殺を止めようとする側に立ち、「この人たちは朝鮮人じゃないから」と「擁護」する。

だから感情移入して応援して観てるんだけど、そこへ「朝鮮人だったら殺してもええんか?」という新助の問いかけが投げ込まれて、観客もろとも冷や水をぶっかけられるんですよね。

 

「朝鮮人だったら殺してもいい」訳はもちろんないのだけれど。でもその思考の本当の怖さを知ってるのは、被差別者である新助だけなんですよね。

その思考は状況に応じて、「部落民だったら」「共産党員だったら」などにいとも容易く変わってしまうから。

こっちサイドに立ってる我々だって、いつそっち側に立たされるかわからない。

だから「◯◯だったら差別してもいい」は絶対に許してはならないという、シンプルな話なのですが。

 

太鼓の音に乗せて、ホラーのようなタッチで描かれていく虐殺シーン。

ここでも、ホラー的に見せることを避けていない。虐殺シーンに娯楽映画的なカタルシスを混ぜることを「不謹慎かも…」と避けてしまいそうなんだけど、あえて「映画」であることを選んでいます。

だからやっぱり、ちゃんと強いシーンになってる。「手に汗握る」スリリングなシーンになっているし、映画的なカタルシスがあればこそ、そこで描かれていることの怖さも伝わるというものです。

 

なので、本作は基本的にまずは極めて恐ろしいホラー映画だし、ホラーの文脈でちゃんと傑作になっているのが、何よりも良かったと思うんですよね。

⑥印象的な川の風景

風景の選び方も印象的でした。特に、川の使い方。

物語の要所で「川の風景」がキービジュアルになっています。

 

倉蔵が渡しをやってる利根川は村の内と外を区切る境界になっていて。

アウトローである倉蔵はその境界に住み、村にいづらくなった女たちはみんな吸い込まれるようにここにやって来ます。

その境界線から向こう側へ、行けそうで行けない。

開けているのに閉じている、日本の村。

 

事件が起こるのも川。新助たちが川を渡ろうとしたところで、事件が起こる。

川を渡れず、向こう側へ行けず、新助たちは殺されてしまい、死体は川に流されます。

虐殺の犠牲者の遺体は多くがこのように川に流され、だから犠牲者数も定かではないんですよね。

 

新助たち一行が故郷を出てくるシーンでも、川を渡っていました。

ラスト、残りわずかになった一行が故郷に帰るシーンでも、川を渡っています。

彼らにとっては、故郷を出て残酷な異世界へ「行って帰る物語」だった訳ですね。

 

ラストシーンも川。静子と智一が渡し船に乗って、川に漕ぎ出て行く。

そこで交わされる「どこに行くの?」という問いは、現代の我々みんな、日本に向けられているようですね。

 

 

 

 

その発想の「古さ」がどうにも好きじゃなかった荒井晴彦監督作品。「福田村事件」もある意味で感性は「古い」と思うのだけど、複数の合作になることで絶妙なバランスになっていると思うんですよね。