Lady Bird(2017 アメリカ)

監督/脚本:グレタ・ガーウィグ

製作:スコット・ルーディン、イーライ・ブッシュ、イヴリン・オニール

製作総指揮:リラ・ヤコブ

音楽:ジョン・ブライオン

撮影:サム・レヴィ

出演:シアーシャ・ローナン、ローリー・メトカーフ、トレイシー・レッツ、ルーカス・ヘッジズ、ティモシー・シャラメ

 

①朝ドラ的な母と娘の物語

とてもシンプルな、普遍的なテーマを素直に描いた映画でした。

17歳の女の子の、卒業と進学へ向けて大忙しの1年間。

彼女は、ガミガミと口やかましいお母さんの元から離れたくて仕方がない。母親に反発するから、彼女は親のつけたクリスティンという名前が嫌い。自分でつけた名前、レディ・バードでどこでも押し通しています。

お母さんは地元の大学に行かせようとするけど、彼女は「中途半端な田舎」サクラメントにはもううんざり。東海岸へ、ニューヨークへ行きたくて仕方がありません。

 

映画は彼女の高校生活の1年間を軽快なテンポで追いながら、母と娘の関係を軸として描いていきます。

レディ・バードと母マリオンの、付かず離れずの関係がいいですね。

二人で大学見学の帰り、母の運転する車の中で、カーステレオで「怒りの葡萄」の朗読を聞いて、二人揃って涙を流している。

仲良しなのかと思いきや、いつのまにか口論になっていて、母は厳しいお小言をズケズケ言ってる。頭にきたレディ・バードは、走ってる車のドアを開けて飛び降りてしまう。

 

娘は母に激しく反発しているけれど、一方ではお母さんに優しくされたいとも思っていて、時にはとても仲良しだったり、小さい子のように甘えてみたり。

母の方も、厳しい言葉はもちろん愛情の裏返し。しっかりしない娘を見かねてついつい言葉がキツくなるけれど、それは彼女の成長を願うからだと客観的にはわかる。でも、当の娘にはわからない

 

そんな、ごく当たり前の母娘関係。これって、アメリカも日本もないですね。

これまさに、NHKの朝の連ドラ。田舎で暮らす元気で前向きなヒロインが、家族や母の愛情を感じたり反発したりしながら、やがて巣立って上京していく。

朝ドラなら後半東京編になるところですが、ここでは上京までの母と娘の関係に焦点を絞っています。

「あまちゃん」とか今やってる「半分、青い。」とかでもおなじみの、現代モノの朝ドラ王道のストーリー。

だから、とても親しみやすく、観やすいです。アメリカならではの複雑な受験制度や、プロムパーティーなどが描かれていても、日本のドラマと変わらない空気感で観ていくことができる。

陽気なコメディであること、主人公の元気さ、前向きさも上記のような朝ドラと共通していて、上にあげたようなタイプの朝ドラにハマった人は、楽しく観られるのではないでしょうか。

 

②誰しも覚えがある十代の姿

17歳の女の子の、等身大の生活。変に背伸びしているでもなく、病んでいるでもない、ごく普通の楽しくドタバタした高校生活が、非常に軽快な小走りのテンポで描かれていきます。

東部の大学に行きたいけれど成績は伸び悩み、内申を良くしたいけどつい余計なことを言ってしまう。

ミュージカルにチャレンジしてはすぐに飽き、友達ときわどいワイ談を言い合って笑い転げる。日本の学生も変わらない、本人的にはそれなりに悩み多いけれど、基本的に平和でノホホンとしたゆるーい高校生活。

 

すごくドラマチックな恋愛をするでもない。

何か一つのことに、真剣に取り組んで努力するでもない。

将来の夢に向かって突き進むでもない。

ただ、なんとなく現状に不満を持っていて、でもやりたいことも特になく、モラトリアムな日常に甘んじている。

地元がつまらないと言うけれど、じゃあニューヨークに行って何者かになれるのかと言えば、そんな自信は何もない。

でも、口だけは大きい。自分は特別だという、根拠のない思いだけは抱えている。膨れ上がった自意識と、追いつかない現実

 

そんな姿…まさに、十代の典型的な姿ですよね。

世の中の誰もが身に覚えがあるだろう、十代特有のちょっと痛くて微笑ましい有り様

いやあ本当にみんな同じなんだなあ…日本もアメリカも、男も女もないなあ…と思わされます。

 

いやほんと、すごく普遍的な若さというものを描き出していると思います。

いわゆるよく言われる、陽キャとか陰キャとか。そんなのも関係ないですね。若さはある意味、没個性

地味な太っちょも真面目なお坊ちゃんも、イキってるバンドのギタリストも、みんな一様に痛い。

 

グレダ・ガーウィグ監督、自分自身を投影したそんな若さたちを、自虐的なユーモアを込めて、また同時に存分な愛情を込めて描いています。

何をしたかではなく、心のありようの部分で、とても普遍的なところを描いているから、どんな国のどんな人でも共感できるんじゃないでしょうか。

③様々な社会事象へのニュートラルな視点

レディ・バードが通っているのはカトリックの高校。進路指導はシスターで、ミュージカルの顧問は神父です。礼拝や、宗教にまつわる講義も何度も描かれます。

カトリック系の学校は日本でも一般的ですが、やはりアメリカでは本格的な印象があります。サクラメントという土地柄もあるのかな? キリスト教が生活に深く根付いています。

 

レディ・バードは現代っ子だから、宗教に対しては不真面目。聖体拝領のパンをぽりぽりおやつに食べていたり、中絶を否定する講演を茶化してみたり。

でもやっぱりそこで生まれ育ったから、彼女の中にもちゃんと宗教が入り込んでいて、いざ不安になった時に吸い寄せられるのは教会だったりします。

この辺りもとても普遍的な印象ですね。宗教に対していいとか悪いとか決めつけるのではなく、生活の中に「あるもの」として両面を描いている。

 

映画の中にはいろんな社会的な要素も登場するんだけど、そのそれぞれに対して、同じような視点が貫かれています。

決めつけない。価値観を押し付けない。

それはまだ一面的な価値観に染まっていないレディ・バードのものの見方。

さっきは若さの痛いところだったけど、ここは若さの特質ですね。

 

母が病院に勤めているのに、お金について常に気にしていなくてはならないレディ・バードの家の経済問題

父の失業、そして鬱。養子であるミゲルとシェリーへの民族差別

それに、2002年という時代設定ゆえの、テロや戦争への距離感

様々な物事が17歳の少女を取り囲んでいて、それは彼女にとって一つ一つ世界との接点でもある。

そんな一つ一つに少しずつ触れながら、レディ・バードは大人に近づいていく。

 

そう言えば、2002年という微妙に昔の年代設定も、現代モノの朝ドラっぽいですね。「あまちゃん」は東日本大震災に向かっていく物語だったし、「半分、青い。」は1990年前後が(今のところ)舞台になっています。

今ではない、でも古めかしくなってしまうほどの昔でもない、絶妙な年代設定。

グレダ・ガーウィグ監督は「スマートホンに興味がなかった」と言っています。確かに今なら、レディ・バードの生活は自撮りやSNSと切っても切れないものになっていたでしょう。

まだしも、若者がSNS越しじゃなく、直接世界と触れ合っていた時代。そうとも言えるのかもしれません。

④母親の気持ちに感情移入

自分自身の若い頃を投影しながら、レディ・バードを中心に観ていく映画ではあるんだけど、最後の方になるとやっぱり大人の方に、彼女の両親の側に感情移入してしまいます。

僕自身も娘がいる身なので…ついつい、いろいろ自分に置き換えてしまいますね。

 

父ラリーと母マリオンの過去ははっきり語られはしないんだけど、断片的な会話から想像することができます。

そもそも、彼らは17歳のレディ・バードの親としては老けてますね。マリオンは一度は妊娠を諦めていた、つまりレディ・バードは遅くなってできた子供であることがわかります。だからこそ、彼らは養子をとっていたのでしょう。

 

諦めかけた頃、遅くにできたひとり娘。そりゃもう、マリオンにとってはかけがえのないかわいい娘であったはず。

それが自明なこととしてわかるから、彼女の娘への厳しい態度も、すべて愛情ゆえのものであることは、観ている側にはひしひしと伝わります。

わからないのは、当のレディ・バードただ一人なんですね。

 

マリオンがレディ・バードの東部行きを拒むのは、彼女を手元から離したくないからだということもよくわかる。

優しく、理解ある父としてレディ・バードの味方になって、東部行きの手伝いをしてくれるラリーよりも、マリオンはずっと深く娘に固執しています。だからこその、騙されたと知った時の激しい怒りですね。

 

最後、娘を空港へ送って行って、見送りも拒否してラリーに任せ、自分は運転して帰っていく…でもいくらも行かないうちに堪え切れない涙がこみ上げてきて、もうどうにも我慢できなくなって、慌てて空港へ戻っていく…そんなマリオンの姿に、胸が熱くなります。

 

大人になった子供を外の世界へ送り出す、親なら誰もが受け入れなくちゃならない通過儀礼。

その辛さ、寂しさ、やり切れなさ。

避けられないことだとわかっているけど、それが娘のためだと知っているけど、それでもやっぱり悲しいものは悲しい。

これも…普遍的な感情ですよね。

 

思えばこの1年間というのは、マリオンにとっては子供である娘と過ごす最後の1年間

やがて来る別れを前提とした、かけがえのない1年間だったんですよね、最初から。

彼女はそれをわかっているから、あえて娘にきつく当たっていた節がある。空港で最初「見送りなんてしない」と言うのと同じ発想です。

辛いのはわかっているんだから、初めから距離をおいておこうという発想。

 

でもその真意は、娘にはわからない。伝わらない。

わかるのは、別れてしまった後。ニューヨークでの生活を始めてしばらくして、その後。

晴れて自由になって、一人になって、自分が母親と別れたのだということを実感して初めて、別れの辛さや悲しさに気づくことになります。

仕方ないですよね。人は誰も、経験のないことなんてわからない。

別れの辛さを経験して初めて、他人の辛さも想像できるそれが大人になるってことなんですよね。

⑤テントウムシに込めた思い…

レディバードはテントウムシのこと。彼女の赤い髪はまさにテントウムシを思わせます。

テントウムシといえば天道虫という名の通り、上へ上へと登っててっぺんまで着いては飛び立つという習性を持っています。

お天道様に向かって飛ぶから、テントウムシ。

 

上へ上へ、本能のように登って行って、光に向かって飛ぼうとする。レディ・バードの「習性」とも言えそうです。

でも、とりあえず家を出て、飛び立つまでが彼女の目標。それを達成したら、彼女はレディ・バードであることをやめて、クリスティンに戻ります。

 

ラストシーンは教会の前で立ち尽くすクリスティン。

夢もやりたいことも持たず、ただ家を出ることだけを目標にやってきた彼女は、向かう方向を見失って途方にくれたように見えます。

 

でもまっさらで、ここから何にでもなれるのが若さってものだから。

これからクリスティンの「東京編」が始まることになるのでしょう。

最後まで前向きに、でも決して若者をただ甘やかすことなく、厳しさも込めて描いている。

良質な青春映画、そして世代によって様々な受け取り方のできる懐の深い映画だったと思います。

 

グレタ・ガーウィグ監督&シアーシャ・ローナン主演の次作、レビューはこちら。