今日の555!!!
「愛されるよりも、愛するほうが幸せだ」とは、よく言われる言葉です。
それは頭では判っていても、やはり
「自分だけが一方的に愛を捧げるのは、何だか損をしているような気になってしまう」
「自分も愛されているという実感がもてなければ、不安で仕方がない」
という人も多いのではないでしょうか。
たしかに、他人から愛されることは大切です。
誰からも愛されず、
認められず、
自分ひとりの力だけで生きていくことは、
非常に困難だし、味気ないものです。
しかし、求めたからといって愛情がえられるわけではありません。
愛情は、他人が自発的に与えてくれるものだからこそ、
価値があるのです。
私たちにできることは、ただその愛情に感謝することだけです。
愛情は求めてもえられませんが、
求めなければ必ずえられるというわけでもありません。
人付き合いは、ひとつの賭けだと言えます。
いい人に巡り会うこともあれば、そうでない場合も多々あります。
同じ賭けなら、少しでも有利なほうに賭けるのが得策です。
「愛情を求めて、愛されることに賭ける」よりも、
「愛情を求めなくても、愛されることに賭ける」ほうが、
はるかに愛される確率は高くなり、よろこびも大きいのです。
「自分には何も悪気はないのに、なぜか他人に近づこうとすると、素っ気ない態度をとられたり、敬遠されたりする」
という人は、
そもそも、
そうして他人の態度をいちいち気にして、
相手を試し、
身構えていることが、
避けられる原因になっているのではないでしょうか。
無意識のうちに、
「私があなたを尊重しているのだから、あなたも私を尊重しなさい」
「あなたが私を認めてくれるなら、私もあなたを認めてもいいですよ」
というメッセージを相手に送っているのかもしれません。
悪く言えば、
「自己愛を満たすために、他人を利用しようとしている」のです。
まわりの他人は、
「利用されてはたまらない」
と、遠ざかってしまうのです。
他人に愛情を求めてしまう人が感じているもっとも大きな不安は、
「自分が愛するだけでは、ただ他人につけこまれ、もてあそばれるだけで終わるのではないか」
ということではないでしょうか。
男性であれば、好きな女性にせっせと金品を貢いだり、
女性であれば、かいがいしく男性の身のまわりの世話を焼いたりしたのに、
まったく報われず、感謝もされず、挙げ句に相手は離れていった。
そういう経験のある人は、
「自分だけが損をした」
という虚しさを感じ、
「よけいに愛したほうの負けなのだ」
と思ってしまうのかもしれません。
他人に尽くすこと自体は、間違ってはいません。
他人のためになること、他人の役に立つことは、おおいにやったほうがいいでしょう。
「他人に尽くして損をした」という人が間違っていた点は、
「尽くした」という行為そのものではなく、
「自分が好かれるために、他人の機嫌をとろうとした」
ことです。
こびへつらってまで他人に気に入られようとした自分の浅ましさに気づかされるのが悔しいのです。
本当に他人に尽くしている人は、
ことさらに「尽くしている」などとは意識しないものです。
自分がそうしたいからしているだけです。
たとえ他人から感謝されなくても、
自分の目的は達しているのですから、
それで満足なのです。
自分の意思で判断し、主体的に生きている人は、
「自分を押し殺して他人に好かれても意味がない」
ということが判っているから、
「損をした」と思うような尽くし方はしません。
主体的な人ほど、限度をわきまえています。
結果が思い通りにならなくても、
自分の考えに従って行動を起こしたことに満足できるのです。
「自分が愛されるために、他人に尽くす」
という行為は、必ず裏切られます。
愛されなくても損だし、
たとえ愛されたと感じたとしても、
そのような「条件付きの愛情」で心が満たされることはありません。
むしろ、
「そこまでしなければ、自分は受け入れてもらえないのだ」
という劣等感にさいなまれることになります。
「他人にどう思われているか」
がよけいに気にかかり、
ゴールのないマラソンを永久に走らされているようで、
心は疲れるばかりでしょう。
他人に愛情を要求してしまう人は、
自分のほうがよけいに愛されることで、
支配するかされるかの戦いに勝ったつもりでいるのかもしれません。
しかし、勝ち負けで考えるなら、
愛されることを求める人のほうが負けなのです。
自分が幸せになるかどうかの選択権を
相手に譲り渡しているわけですから。
自分が嫌われないように、
相手の機嫌をとり、
しっぽを振り続けなければなりません。
「他人から愛されるかどうかは二の次でよい。自分が他人を愛することが幸せなのだ」
と考えている人は、絶対に負けることはありません。
その幸せは、自分の意思で決めたものであるから、
自ら捨て去らないかぎり、
けっして失うことはないのです。
僕たちの体の幅って、たかが、畳半分です。
僕たちの体の長さって、たかが、畳一畳です。
どれだけ家が広くても、実際に自分の身体が占有している広さは変わりません。
「もっと豊かな暮らしがしたい」
という不満をもっている人でも、
家の中を見回してみれば、
人間が生きていく上で不可欠というわけではない
「無駄なもの」
がたくさんあることに気づくでしょう。
ただでさえ私たちは、身に余る暮らしをしているのです。
せまく質素な家の中でも、
目を閉じて
「ここは宮殿のような豪邸だ」
と想像してみてください。
ひとりの人間が生きていくために、
何百坪もの土地は必要ありません。
むしろ、家が広ければ広いほど、
管理に手間と費用がかかるし、
防犯対策などのわずらわしさも増えることになります。
実際に広い家を所有することと、
広い家に住んでいると想像することの間に、
どれほどの違いがあるというのでしょうか。
広い家に住むことの利点が、
「贅沢な気分に浸れる」ということだけならば、
自分で勝手に広い家を想像するのも同じことです。
ただの「気分の問題」なのですから。
300円の原価でつくった家庭料理と、
高級レストランで出される3万円の料理とを比較してみましょう。
高価な食材とは、たいてい、稀少なものです。
しかし、稀少だからおいしいとはかぎりません。
値段が100倍になったからといって、
栄養価も100倍になるわけではなく、
高い料理を食べたからといって長生きするわけでもありません。
どんな高級な食材を使い、
一流のシェフが腕をふるった料理でも、
ひとりの人間が一度に食べられる量には限界があります。
量が同じなら、腹のふくれ具合も同じです。
そう考えれば、食べものは、
「値段が高ければ高いほど、割に合わない」
ということが判ります。
たった一個のおにぎりでも、
たとえば、富士山の頂上で食べていると思えば、
おいしく食べられるのです。
「目に見えるもの」「形あるもの」
を手に入れて満足するという俗な楽しみは、
想像力のない人にまかせておきましょう。
目に見えるものを見えるままにしか感じられない人は、
どれだけ贅沢をしても心は豊かになりません。
幸せとは、心が満たされることです。
現実を変えなくても、
想像力を駆使して心の中を変えるだけで、
充分に幸せになれるのです。
幸せは目に見えませんが、
「自分を幸せだと思うこと」は、たしかな現実です。
他人の心の中も、目には見えません。
「自分が好かれているか、嫌われているか」
をどれだけ気にかけても、本当のところは判らないのです。
どうせ見えないのですから、
自分に都合のよいように想像してしまえばよいのです。
他人が怖いという人は、
みんなが怖い鬼の仮面をかぶっているように見えているのではないでしょうか。
その他人の顔に、
にっこりと笑ったお面をかぶせてみましょう。
そして、「みんな、自分に好意をもっているはずだ」と、他人の心の中を勝手に想像してみましょう。
それだけで、心はずいぶん安らぐはずです。
愛情を計測器ではかることはできません。他人に愛されることによって、何かが物理的に変化するわけでもありません。
愛情で結ばれた関係とは、いい意味での勘違いだと言えます。
「愛されること」とは、すなわち「自分が愛されていると思うこと」です。
自分がどう思うかという問題なのですから、勝手に「自分は愛されている」と思えばよいのです。
「それでは、ただのうぬぼれにすぎず、ストーカーになるような人間と同じではないか」という疑問をもたれる人もいるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。
鼻持ちならないうぬぼれ屋や、特定の人に執拗に付きまとうストーカーなどは、本当に「自分は愛されている」と思っているわけではなく、むしろまったく逆で、「自分は愛される価値のない人間だ」という劣等感にまみれており、だからこそ、他人に愛情を要求しなければ気がすまないのです。
心から「自分は愛されている」と思うことができる人は、それ以上に愛を求めることはしません。お腹がいっぱいになればそれ以上食べられないのと同じように、本当に心が満たされれば、もう充分だと思えるようになるのです。
現実と妄想の区別がつかないのは困りますが、自分を幸せだと思える人は、自分の心をしっかり管理できているのです。
心が大きくなれば、他人に優しくなれます。
自分の想像力で、心はいくらでも大きくすることができるのです。
「自分は他人に愛されている」と思うことができれば、「できるだけ恩返しをしよう」と思えるようになるでしょう。
そういう積極的な態度が、ますます他人の愛情を呼び込むのです。