夏蜜柑の萌語り -142ページ目

【犬まこ】恋人たちのsakura magic

「よーし、この辺でいいだろ」
 まだ太陽の見える気配もない、月の支配する空の下。
 二人の男が、大きなブルーシートを声かけし合いながら広げていた。
「白鳥ー、お前の右、たるんでねーか?」
「ちょうどこっちの木に当たるんだよな…犬飼もうちょい下がれるか?」
「おー…。しかし俺らも甲斐甲斐しいよなぁ」
 苦笑した犬飼に合わせ、白鳥もわざとらしくため息をつく。
「ホントだよな! 弓道部で花見! はいいけどさ、何で俺らが前日深夜から場所取りしなきゃいかんのだ」
「百歩譲って一年の仕事だと割り切っても、だ」
「全くだ、宮地が免除なのは納得いかねぇ!」
「こっそりあいつの飲み物にビール混ぜてやらぁ」
 二人が悪者の顔になって笑い合う。「にやり」という擬音がよく似合う。
「…しっかし、綺麗に咲いたもんだよな」
「あぁ。構内に桜が多いってのはいいもんだな。夜桜ってのも風情がある」
「犬飼、シートもこれでOKだし、俺らだけで一足先に夜桜鑑賞といこうぜ」
 白鳥が、右手で缶を傾けるジェスチャーをする。
「おっ、いいねぇ!」
「じゃあ俺、ちょいアパート戻って、買いだめの酒持ってくるわ」
「おー悪いな、じゃあ俺はここで見張りしてるわ」
 白鳥が自転車にまたがって走り去る。犬飼はブルーシートの中心に腰を下ろし、桜の隙間から光を降らせる月を見上げた。
「…真琴……」


「えっ!?」


 聞こえるはずのない声に、犬飼は慌てて周囲を見回した。
「まこ……は、春名!?」
 見ると、白鳥が去っていった辺りから、春名がひょっこりと現れていた。一人になった途端、思考を支配していた対象が目の前に現れ、犬飼は混乱する。
「白鳥くんが帰ってきたみたいで…犬飼くん、一人で退屈じゃないかなって…」
 聞いてもいないのに理由を説明してくれて、納得する。春名と白鳥の下宿先は偶然にも同じアパートだ。
「いやぁ、白鳥と一足先に一杯やろうぜって話になってさ」
「何よそれ、呆れた! もう、私も混ぜてよね!」
 春名はつかつかとシートに乗り込んで、犬飼の隣に座り込む。
「おいおい、いいのかよ未成年」
「うるさいわね、犬飼くんたちもでしょ」
 ひとしきり文句を言い合った後、ふと犬飼は桜を見上げた。
「…さっき」
「うん?」
「お前が現れたとき、本当に驚いたんだ」
「私だって、突然…名前呼ばれて、びっくりしたわよ」
「あぁ…わり」
 二人が、同時に顔を見合わせた。月明かりに照らされて、視線が絡んで、結ばれる。
「桜見てたら…お前に会いたくなってな…」
「犬飼くん…?」
 犬飼が、春名の頬にゆっくりと手を伸ばす。
「名前で呼べよ…真琴」
「ちょ、待って…隆文…」
 近づいてくる犬飼の顔に緊張を隠しきれず、春名は視線を逸らそうとする。
 しかしそれは、叶わない。
 既に視線は、心ごと、犬飼の手に捉えられているからだ。
 だからもちろん、犬飼は静止する気配もないし、春名も本当に止めてほしいなどと考えてはいない。
「待たねぇ…やっぱ黙れ、お前…」
 春名はもう流れを犬飼に委ね、目を閉じた。

 お互いの唇に柔らかい感触。息をするために軽く口を開けた瞬間を逃さず、犬飼は舌を侵入させる。
「ふぁ…」
 春名は自分が出した声の甘さに驚いて、思わず離れようとした。しかし、犬飼と絡み合う気持ちよさに抗えず、再び身を委ねる。
「ん…素直じゃん…」
「ばっ…か…んぁ…」

 どのくらいの時間が経ったのだろうか。
 舌が痺れるくらいになってようやく、犬飼が春名を解放した。
 少しだけ息を乱したまま、犬飼は正面から春名を抱き締める。
「わり…なんか…」
「謝んなくていいよ…隆文が言ったんじゃない、素直な私だよ」
 犬飼の手に力がこもり、春名も頭を犬飼の胸に預けた。
「桜の魔力だなぁ…」
「ふふ…そうね…」


「気は済んだかーい、お二人サーン?」


小さな機械音とともに、般若のような形相の白鳥が、二人の間に割って入った。
「うおっ! 白鳥!?」
「嘘っ! 待って今の音って…!」
 白鳥が勝ち誇った顔で携帯電話を掲げる。
「はぁーい、二人のハグ現場はバッチリと押さえましたー!」
「うぉおーい! 止めろ白鳥、そんなもんどうするつもりだ…!」
「そうだなぁー、とりあえず弓道部員に一斉送信かなぁ?」
「馬鹿野郎ぉぉぉ!!!」

 二人が追いかけっこを始めるのを見て、春名は苦笑する。
「ムービーじゃなくて、よかった…」


 桜の魔法にかかった恋人たちの秘め事を、他の人に見られるわけにはいかないから。