9章鎌倉の写実-慶派の仏像 | 65歳の芸大生

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定年退職後、新しいことにチャレンジしたいと考えて、今まで縁がなかった芸術について学ぼうと思い、京都芸術大学通信教育部芸術教養学科に編入学しました。このブログが日々の学習内容の記録として活用しています。

この章の要点

武家社会となった鎌倉時代は、運慶と快慶で知られる慶派の仏像が主流となります。平安時代末期の治承4年(1180年)、平重衡による南都焼討ちによって東大寺や興福寺の多くの堂宇が焼失し、慶派はその復興の造仏において卓越した技量を発揮しました。写実的で力強さにあふれた東大寺南大門の《金剛力士立像》は、その象徴的な作例です。本章では、定朝から分派した奈良仏師の時代の仏像から、慶派を中心とした鎌倉時代の仏像の流れを見ていきます。 Movie1・・・興福寺南円堂 《不空羂索観音坐像》 Movie2・・・運慶の仏像 円成寺《大日如来坐像》と願成就院《毘沙門天立像》 Movie3・・・快慶の仏像 Movie4・・・東大寺南大門 《金剛力士立像》 Movie5・・・六波羅蜜寺 《空也上人像》

 

治承4年(1180)の南都焼討の翌年、直ちに寺院の復興がはじまりました。興福寺南円堂の《不空羂索観音坐像》を制作したのが慶派の祖康慶であり、息子運慶は卓越した技量を発揮して、円成寺の大日如来坐像をはじめとする数多くの仏像を手がけ、自らが慶派の棟梁となってからは一派を率いて東大寺南大門《金剛力士立像》を制作しました。運慶と同輩の快慶も優れた仏像を制作し、とりわけ安阿弥様と呼ばれる三尺の阿弥陀立像が有名です。運慶の長男湛慶は三十三間堂本尊の《千手観音坐像》の作者として知られ、四男康勝は六波羅蜜寺《空也上人像》を制作したことが知られています。