論文では、論旨が正しく伝わることが重要視される。わかりにくい文章を書くと、訂正や書き直しをさせられることも昔は当たり前だった。意図せぬ伝わり方をさける文章を書くことや書かせることこそが、国語の教育では大切だと思う。しかし、入試の国語や古典、あるいは英語でも、主語を文脈から推測することが必要な文章を出題する傾向がある。日本が科学技術の今後の振興を求めて高等教育の改革を進めるのならば、国立大学の授業料を年間150万に上げろとか大学教育を金儲けの手段と考えている連中を排除すべきであり、論文を適切に書き、読む人間を増やす教育を考えられる人間を選ぶべきである。そもそも、国立大学の学生の親の年収が私立大学の親の年収よりも150万ぐらい高いという統計は大雑把に過ぎる。自宅から通える大学に進学させるならば、下宿代などの費用を考えれば、年間150万の授業料も負担可能だが、国立大学の場合には、同じ県内でも下宿などが必要となることもあり、学費以外の負担が可能でなければ大学進学はかなり親にとっては厳しい経済負担である。さらに給与所得と自営業者の年収の意味の違いも理解できていないとしか思えない。そんな人間が教授であったり学長であったりする大学で本当に科学技術の振興に寄与する大学教育ができているのか怪しいものだ。
 

 お役人様たちがわかりにくいマニュアルしか書けないことは、役所の手続きをするときに多くの人が実感できることである。そんな文章しか書かない人間たちの一部である文部科学省が、教育課程を熟慮の上でちゃんと検討して作ったとは思えない。実際に2025年の大学入試の際には、当初は英語の試験は2回受験できて良い方の点数で大学の受験となるような制度を作ると国民にアピールしたが、結局何も変えることができぬままであった。その間に、Aiの進歩で機械翻訳の精度があがり、極論を言えばリスニングスキルが拙くても、なんとかなるようになってきている。試験科目も増えているなかリスニングの試験を行う必要が本当にあるのかどうか怪しい。
 

 直感的に理解の難しい概念をどう伝えるのか、どうやって理解するのかという部分で読み書きの能力を受験生に確認するための試験は必要で、英語での読解力を確認する試験は当然課すべきだとは思うが、それは、科学論文を原典として出題すべきであって、随筆文や小説は相応しくない。なぜなら、主語を曖昧にして初めて成立するようなストーリー上の謎かけや、登場人物の関係性の隠蔽などのトリックが小説では重要な手段であり、随筆文であれば実際の人間関係に関連する部分をぼやかす必要もあって、敢えてわかりにくくしなければならないこともあるからである。
 

 忖度力を学力として評価すべきだと国民に宣言したうえで、ややこしい役人言葉を役人に都合のよいように読み取るための勉強をさせるというならともかく、楽しむための小説や随筆文を形にはめて読むような味気ない読み方をするための勉強が、学力を測るために必要とは思えない。