6ヶ月検診で
子宮頸管長が短いと指摘された2日後。

※子宮頸管長は通常4センチほど。
出産が近づくにつれ短くなりますが
妊娠6ヶ月ですでに3センチになっていたのです。


ふたたび病院へ。

さすがにこのときは
お腹の張りを感じており、
待合室のベッドで横になる程。

自分でも状態が良くないと
認識できるほどでした。


診察の結果、

子宮頸管長は
さらに短くなり、2.8センチ。


荷物を取りに帰ることもなく
即、入院。


診察室の向かいにある
病棟に通されました。


そして、
すぐに子宮収縮を抑える
ウテメリンの点滴が
はじまりました。


私が生きてる限り
動き続ける臓器...子宮。


22週で生まれても
助かる確率は恐ろしく低く

なるべく母体にとどまることが
ベストな状況。


点滴は24時間。
出産するまで。

治療法はそれ以外になく
あとはベッドの上で寝るだけ。


その後、
入院の手続き、同意書など
様々な書類にサイン。


もっともショックだったのは

今後の治療方針の同意書に
「36週(2015年2月末)まで入院させることが望ましく」
とあったことでした。

入院したのが
2014年11月17日。


何週間、何ヶ月なのだろう...

そう考えると
無事に出産できる週数に達するまで

ひどく気が長く
入院がずっと続くことに
目の前が真っ暗になったほどです。


...

....

切迫早産が
どんなものかわからなかった私は

「すぐにでも生まれるかもしれない」
と気が動転し、

母に応援を頼んで
入院初日に福岡から来てもらいました。


夫も、

そして母も、

この一文を読んで
思わず日数を数えたと言います。


妊娠期間が十月十日とはいえ、
病室に閉じ込められた
マタニティライフを

誰が想像したでしょう。



不安で不安で仕方なくて
夜はこっそり涙することもありました。

...

.....


けれども、

2度の出産を経て
ようやく生きた子を持つ母になった
いまの私は
当時の自分をこう思うのです。


そのときの私は
覚悟が決めれてなかった。



突然のことの動揺とともに

自分がイメージしていた
「マタニティ」と乖離していたことへの
ショックが大きかった、と。



外で見る妊婦は
元気、はつらつ、
いかにも幸せそうに歩いてるように見え、

幸福をそこら中に
振りまいてるようにすら
見えていたのです。


それに引き換え、

切迫早産と言われ
入院を余儀なくされた私は

24時間点滴。

この薬の効果がどのほどなのかもわからないし、
正直、医師に対する信頼もなかった。


まだこのときは
医師や看護師にとって
”いい患者”であろうとしていたのです。


そっぽを向かれたら困る、
いい子にしたいなければ、

そんな思いが強かった。




「コトバ」の力で応援されて夢を叶えると
言っている私ですが、


このときはまだ

誰かにとっての「いい人」でありたかった。


応援されるのに
「いい人」である必要はないんです。


ありのままの
正直な気持ちで
心を伝えたら、
不安を言えたら

よかったのに...



結果、
その病院での入院は
6日間でした。


11月22日の夜、
どんなにウテメリンの値を上げても
お腹の張りが収まらず。


当直医に内診してもらった結果、


子宮頸管長1.8センチ。


「この病院では見られない」。


急遽、総合周産期母子医療センターのある
大学病院へ転院することになったのです。