DD54が牽引する客車列車が駅に佇んでいます。

山あいの長閑なローカル線的な風情を醸していますけど、ここ、何処だと思いますか?

考える前に答えを出してしまうと、実はここ、福知山線の中山寺駅だそうです。

撮影年は不明ですが、昭和50年代前半であるのは間違いなさそう。一部媒体では、「晩年のDD54は播但線での運用に限られていた」という記述があるんですが、少なくとも昭和52年まで福知山線で客車列車を牽引している記録があることから、播但線に限っていないことが判ります。

 

さて、撮影地である中山寺駅、今でこそ橋上駅舎になっていますが、昭和52年当時は地上駅舎で福知山線の前身である阪鶴鉄道時代の駅舎をそのまま使っていました。そして今も昔も相対式ホームですが、ホーム屋根は一部にしかなく、跨線橋はなくてプラットホームを刳り抜いて構内踏切を渡って反対側のホームに向かう典型的なローカル駅。

また、当時は北口のみで今のように南口はなく、駅員さんはいるけど改札業務は行ってなく(中山寺駅は昭和46年に無人駅化になったもよう)、南側は田んぼが拡がっていたそうです。北口のみだった駅前には雑貨屋さんが1軒あるだけの寂しい駅前広場。

んだから、「ここは中山寺駅なんだよ」って言っても誰も信用しないかも。

 

中山寺駅は兵庫県宝塚市にありますが、市内にあって大阪へのベッドタウンである筈の中山寺駅が何でここまで寂れているかというと、沿線住民の殆どが阪急宝塚線を利用していたから。国鉄の中山寺駅と阪急の中山観音駅とは至近ですが、栄えていたのは勿論阪急。

「電化と非電化の差」なのか、「単線と複線の差」なのか、「運賃の差」なのか、「高頻度ダイヤとローカル線ダイヤの差」なのかは知らんけど、この頃の福知山線と阪急宝塚線との差は歴然でした。昔から「国鉄対私鉄」の対抗図式が鮮明だった京阪神ですが、こと福知山線に限れば、その競争から置き去りにされていた格好になります。昭和55~56年に福知山線が複線電化されて電車が走るようになっても変わりませんでした(橋上駅舎化は昭和57年)。

 

そんな状況が一変するのはJR化後。

宝塚市が推し進めた土地区画整理事業で南口が新設され、バスやクシーが乗り入れられるようになり、地下駐輪場、商業施設が出来ました。住宅整備も進み、駅員配置を復活させ、快速列車の運転も再開されるようになり、徐々にJR対阪急の対決図式が変わっていきました。決定的になったのは平成9年のJR東西線の開通でしょうか。それまで大阪止まりだった福知山線の列車をJR東西線に直通運転させるだけでなく、JR京都線にも乗り入れるようになり、利便性が格段に向上。平成15年には快速と丹波路快速が停車するようになりました。

 

画像を見ると、貨物取り扱いを行っていた頃の側線と貨物取り扱い用のホームが残されています。貨物用ホームは大阪寄りに設置されていたので、画像の列車も大阪行きであることが判ります。別の昔の画像を見ると、駅構内の複線間隔が広く取られており、中線があったことを物語っています。多分、優等列車を通過させるのがメインの中線ではなくて、貨物取り扱いとの関連性が強いと予想しました。

 

ここまで大化けした中山寺駅ですが、今回はDD54が主役じゃなかったようです。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

国鉄機関車 激動11年間の記録 (イカロス出版社 刊)

JUGEMブログ「カメラほんのかけだし」

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ウィキペディア(国鉄DD54形ディーゼル機関車、福知山線、中山寺駅、中山観音駅)