電車や気動車にも同じ事が言えると思いますが、JRの機関車は昨今、ある意味、統一された感がありますね。

勿論、用途や走る地域によって異なりますが、直流区間だとEF66(100番代)、EF210、EH200が、交流区間だとEF510、EH500が席巻し、この輪に残り僅かになった国鉄型のEF64、EF65 、ED76、そしてEF81が入る格好になろうかと思います。ディーゼル機関車はまともに稼働しているのはDD200だけで、JR貨物に関してはDD51は淘汰されています。DE10もDE11も風前の灯火で、まともに稼働しているのがあるのかどうか・・?

EF510やEH500は交直両用だから直流区間にも入れますので、東京や大阪でもその姿は見ることが出来ます。また、EF210も0番代、100番代、300番代とあり、EF510もまた、0番代、300番代、500番代があるので、昨今の機関車マニアからすれば多くのバリエーションがあると主張するでしょう。

でも、国鉄時代を知る者としては、 “統一” というのはちょっと寂しいかなという気がしないでもありません。だって、来る列車来る列車同じ機関車だとつまらなくないですか?

 

そこへいくと、国鉄時代は様々な機関車が行き交っていたので、「何が来るか判らない」期待感がありました。

今のように貨物列車しか機関車が牽引する列車は無いわけじゃなかったので、辛抱強く待っていれば、そこそこの数の機関車は撮れたと思います。

 

画像は関西で撮影されたものですが、首都圏を例に取ると、例えば東海道本線。

その頃の貨物牽引の主力はEF65EF66ですが、まぁ、当時のEF66は別格扱いでしたけどね。そしてEF60も牽引していたし、小区間なら古豪のEF15や晩年ながらEF10も戦列に加わっており、EF65も0番代だけでなく、流浪の500番代F型も混じっていました。昭和53年以降ならブルートレイン牽引を追われた500番代P型も貨物を牽引に参戦しますが、「新鶴見の番人」と言われたEF65PF(中期ロット)は東海道の貨物を牽引することはあったのだろうか? あとは “ブラックエンペラー” ことEH10もまだ見ることが出来ました。

 

例えば東北本線・高崎線・常磐線。

東北本線は先ずEF65PFですね。初期ロットは落成して間もない頃は宇都宮だ広島だ下関だと配置がバラバラでしたが、次第に宇都宮に集中配置されるようになります。ここに古豪のEF15がPFのフォロワー的役割で列車の牽引に勤しみ、東北本線をスルー運転する意味合いでEF81が目立たなかったけど首都圏での活躍の足固めをしていた時期でした。

高崎線もEF65PFとEF15が幅を効かせていましたが、主力基地であった高崎第二機関区にはEF12EF62がいましたので、これらもこの戦列に加わっています。また、昭和50年代中盤には長岡に転属したEF64(0番代)が牽引する上越線の貨物列車がそのまま高崎線に乗り入れていました。その頃に登場したEF64 1000番代はEF16の置き換えで上越国境越えの補機が主な任務。EF15や旅客用のEF58が老朽廃車になると、1000番代は補機の扱いから本線での列車牽引にと、活躍の場が拡がっていきます。

常磐線はEF80の天下で旅客に貨物に縦横無尽に活躍する時期が長く続いており、東北本線同様、EF81はまだ脇役の時代。でも、昭和50年代の関東EF81にはあの300番代も加わっていましたので、あれは別格だったかも知れません。

 

例えば中央本線・総武本線。

中央本線は何と言ってもEF64(0番代)。長岡に転じた64は数そのものが知れていたので、目撃がレアでしたが、中央本線では絶対的な主力。でも旅客運用は減り、首都圏エリアに関して言えば専ら貨物牽引が主な日課でした。そして終焉間近かった元祖 “新鶴見の番人” EF13がいました。

総武本線の貨物列車は主にディーゼル機関車が担当しており、佐倉機関区のDD51DE10がその任務に当たっていましたが、金町と新小岩操を結ぶ新金線は電化されていたので、常磐線から直通でEF80EF81がやって来まして、300番代も来ていたと記憶しています。現在の新小岩操には一応「セノハチ用」のEF210 300番代や愛知機関区が塒のDD200が来ますけど、「元関門用」EF81 300番代とは比較になりませんでした。

その頃の新小岩にEF65が来ていたかどうか・・・?

 

一方、関西地区に目を向けると、やはりEF60EF65EF66EH10が “四天王” を築いていました。ここに普段は荷物列車を牽引しているEF61が貨物を牽くこともありました。でも運用範囲が限られていたらしいので、昭和50年代に入ると首都圏への乗り入れはあったのかどうか・・・?

北陸方面からの列車はEF81が一手に引き受けていましたが、いわゆる “湖東線” 経由の列車は田村までをEF70、田村-米原間はDE10、米原からの直流区間はEF60とかEF65にバトンタッチしていたんでしょうね。

竜華操車場を起点とした阪和線では “小さな巨人” ことED60ED61が主力。EF52は既に撤退しており、旅客運用が減ったEF58が貨物を牽くシーンも珍しくありませんでした。

大阪地区の貨物線は城東貨物線や浪速貨物線など、何気に非電化区間が多く、また福知山線からの山陰本線からの貨物を牽引するということで、ここではDD51の一人舞台。しかも初期ロット車が多い。福知山線といえばDD54の存在も忘れてはなりませんが、常に満身創痍だったDD54、昭和50年代に限定すれば、貨物を牽引していたのは播但線だけで、福知山線は旅客列車専業だったようです。

 

画像は東海道本線の関西エリアで貨物を牽くEF60の姿で、昭和51年に撮影されたものだそうです。

その頃のEF60は東海道で括ると、沼津、浜松、米原、岡山、広島の各機関区に配置されており、結果的に全機が東海道と山陽で見られたことになりますが、新鶴見や稲沢第二、そして吹田第二に配置が無いのが意外です(国鉄末期の一時期だけ稲沢に配置されていたことがある)。

前述のように、塒は様々ながら一家は東海道・山陽に集中していましたが、早くも初期ロット車は昭和50年代前半に老朽化が見られ、8両がEF61 200番代に改造して残る6両は昭和59年までに廃車されます。そしてEF12、EF13、EF15といった旧型機の老朽化が問題視され、昭和50年代中盤から八王子や高崎第二といった首都圏の基地に異動する車が出始め、一家は一部が離ればなれになります。民営化までに2両だけ残して全車が廃車され、1両(19号機)はJR東日本に、もう1両(503号機)はJR西日本に継承されますが、いずれも現在は廃車解体の憂き目に遭っています。

 

国鉄時代はこれだけ多くの機関車が活躍していたのに、民営化後は凝縮されてしまったのはやはり運用の効率化が全てと言えるかもしれません。国鉄時代はスルー運転することもあったけど、縄張りの関係からか、要所要所で機関車を交換するのがお約束で、加えて貨物そのものも操車場で入れ換えを頻繁に行っていたため、シャレにならないくらい送達に時間がかかり、それに携わる現場職員の労働環境も過酷さを極めていました。

現場はエグかったけど、今のようなコンテナ車中心の貨物列車を見る限り、それでも1両1両、車両も行く先も異なる車両を連結した国鉄の貨物列車は昭和国鉄時代を語る際に外せない “名脇役” でした。

 

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

国鉄機関車 激動11年間の記録 (イカロス出版社 刊)