いつもですと、EF58は別途、「ザ・ゴハチ」としてお届けしているのですが、写っている機関車の機番が不明だったり、既に取り上げ済みの機番でちょっと「これは」というのを取り上げたいと思った時は通常の「国鉄伝説」で取り上げています。前は「画像を “増備” しました」って加筆修正してたんですけど、億劫になりました。

「年取る」ってえのはやだね。

 

さて、画像は東海道本線の蒲田-川崎間で撮られたもの。おそらく昭和50年3月から53年10月までに撮られたものだと思われますが、当時のゴハチフリークを狂喜させたのがこの「荷35列車」。

旅客用の花形機関車として直流電化の平坦線を中心に東西南北縦横無尽に駆け巡ったEF58も昭和50年代に入ると、初期ロット車を中心に老朽化が進み、昭和53年から廃車が始まります。その当時はまだ少数派だったゴハチフリークですが、「ゴハチが廃車になるらしいぜ」と噂を聞いたかどうかは知らんけど、172両全機を撮る輩が出始めました。そして、その頃のゴハチフリークにとってのスター列車が荷35列車でした。その理由は単純明快で「EF58の重連が通常運行で見られるから」。

 

荷物列車は貨物と同じ扱いですから(注:国鉄では荷物と貨物は運賃も運送方法も別のカテゴリーで扱われる)、積載量が多ければそれだけ重量も嵩みます。時には単機で引っ張れない場合もありますので、その際は重連という手法を用いるわけですが、荷35列車はそれが日常的に、しかも日中に見られたので、ゴハチフリークは狂喜したのです。

荷35列車は汐留発熊本行きで、汐留出発時こそ6~7両という短い編成なんですが、品川で隅田川発の荷2935列車を併結。堂々の15両編成(編成は日によって異なる)となります。前述のように荷物は貨物と同等の重さになるので、さしものEF58も単機では牽引力不足が懸念されまして、名古屋まで前補機が付きました。

 

因みに隅田川からやって来る荷2935列車もまた人気のあった列車で、まず、通常ですと東北・常磐方面の荷物列車は山手貨物線を経由して東海道方面に向かいますが、この荷2935列車は上野駅と東京駅を経由します。東北新幹線の工事の関係で定期旅客列車は設定されていませんでしたが、東海道⇔東北の連絡線として線路は繋がっていました。それを活用していたんですね。

そして、何と言っても貨物用のEF15が牽引したことで知られていました。数両残されていた東京機関区配置機が担当し、白昼堂々、東京駅をEF15牽引の列車が通過するという非日常的な光景が「団地妻、昼下がりの情事」ならぬ、「東京駅、昼下がりの風物詩」でした。

 

本務機と補機とでは機関車の配置が異なったのも荷35列車の大いなる魅力だったと言われています。

本務機は浜松機関区、前補機は宮原機関区で、浜松の1号機、60号機、宮原の47号機、53号機といったスター機関車が至極普通に運用に入ったりしました。

画像の場合は宮原時代の43号機が前補機に付いていますが(47じゃないよな)、大窓+氷柱切り装備の人気機でした。

 

ところで北は宇都宮から南は下関まで幅広く配置されていたEF58ですが、それを1両1両全て撮るというのはなかなかどうして、ハードワークだと思います。どの地域がより多くのゴハチを見ることが出来たんでしょうか?

首都圏だと宇都宮運転所、高崎第二機関区、長岡運転所、東京機関区、浜松機関区、米原機関区、宮原機関区辺りの機関車が定期的に見られ、関西地区だと東京機関区、浜松機関区、米原機関区、宮原機関区、竜華機関区、広島機関区、下関運転所の配置機が普通に見られましたが、団臨仕業で時折、広島と下関配置機が東京にやって来ることがあったそうで、そうなると、首都圏が一番多くのゴハチを撮れたことになりますかね。長岡と高崎第二配置機が関西に来ることはあったんでしょうか?

 

さっき、前補機が宮原、本務機が浜松と申しましたが、前補機宮原の53号機、本務機浜松の60号機というコンビだったら東海道線沿線は凄かったんじゃないですかねぇ~? 国鉄末期~JR黎明期の61+89どころの騒ぎではなかったと思います。ただ、それも一部のコアなマニアにのみウケた列車で、ブルートレインやエル特急を追いかけていたちびっ子には無縁の世界でした。

 

荷35列車について、さらなる詳しい方のご教示を願いたいですね。

 

 

【画像提供】

ホ様

【参考文献・引用】

機関車ハンドブックEF15×EF58 昭和50年代の記録 (イカロス出版社 刊)

国鉄監修・交通公社の時刻表 1978年8月号 (日本交通公社 刊)