金沢や富山は観光、そして新潟は商業で繋がりがあった関係で(勿論、金沢も富山も商業繋がりはある)、古くから大阪と北陸を結ぶアクセス機能は充実しており、数多くの列車が行き交っていました。それも北陸新幹線の敦賀開業で大きく変化したわけですが、どっちにしても現段階では敦賀で乗り換えなければいけないので、面倒臭いですよね。しかも、敦賀から大阪までのルートを巡って侃々諤々しているのを見ると、北陸新幹線の全線開通はもっと先、あるいはそのまま敦賀が終点のまま終わってしまうのでは? とさえ囁かれています。
もっと深刻なのが大阪と新潟のアクセス。
敦賀から先は第三セクターになってしまって、JRの列車は乗り入れないし、夜行高速路線バス「おけさ号」は廃止前提の運行休止に苛まれているし、大阪から新潟へ行くには大阪⇔敦賀は在来線、敦賀⇔富山を新幹線、そして富山⇔新潟(あるいは長岡)は再び第三セクター+在来線・・・と、煩わしさに拍車をかけています。敦賀から上越妙高まで新幹線で行って、それに接続する形で「しらゆき」っていう特急も走っているようですが、それは帰って遠回りになって推奨はしません。
結果的に大阪⇔新潟をダイレクトに結ぶのは航空機くらいですから、鉄道で新潟まで移動するというのは、ただでさえ遠い新潟がさらに遠くなってしまった感があります。
そういう意味で昼行の「北越」と「雷鳥」、夜行の「つるぎ」と「きたぐに」ってホントに便利だったんだなというのを改めて気づかされます。
京阪神と新潟を最初に結んだ特急は「白鳥」でしたけど、それ以前に「白鳥」は北海道連絡っていう使命がありました。それで「北越」が誕生したわけですが、53.10改正で「北越」は「雷鳥」に吸収されてしまい、「北越」の名は残るものの、金沢と新潟を結ぶ列車になりました。
「きたぐに」は一時期、青森まで運転されていましたけど、どっちかというと新潟へのアクセスの方がイメージ的には強いです。私も時代は違うけど大阪→新潟で1回、新潟→大阪(まで行くつもりだったのが京都で降りてしまった)で1回乗ったことがあります。
ブルートレインがブームだった昭和50年代、「つるぎ」もブルートレインの仲間でしたが、全くパッとしない列車でした。新潟まで「日本海」とバッティングしていたため、よく「「日本海」の影武者」って言われてね。「日本海」と「つるぎ」の差は新潟駅に乗り入れるか否かということだけ。「日本海」は新津⇔新発田間は羽越本線を経由するので、新潟には立ち寄りません。逆に言うと「つるぎ」の立ち位置はそこにあったわけですが、急行時代から新潟⇔大阪を行き来する出張サラリーマンに人気があったのは確かなようです。
画像はそんなビジネス客を乗せて大阪に辿り着いた「つるぎ」が塒である宮原客車区へ回送されているシーン。
いつ撮られたのかは不明ですが、「つるぎ」が24系25形に変更された昭和51年2月からイラスト入りのテールマークに変わる昭和54年7月までの撮影と思われます。
「つるぎ」と「日本海(下り1号、上り2号)」を24系化するために60両の車両を新製し(昭和49年度第三次債務処理)、宮原に配属。昭和51年2月20日大阪発車分の「つるぎ」から充当され、炙れた20系客車はそのまま東京行きの上り急行「銀河」に投入されます。「日本海」への投入は少し遅れて同年3月1日から。
これが24系25形0番代における最終増備となり、次の増備分から一部マイナーチェンジが施されて100番代となりました。
画像をよく見ると、その24系25形はまだ新車感がありますので、昭和51年とか52年とか、その頃の撮影なのかなって思ったりします。
前述のように、出張サラリーマンには人気があった「つるぎ」ですが、 “鉄” 的にはパッとしない脇役的な列車だったのは否めません。
そんな「つるぎ」は今や、北陸新幹線の愛称に抜擢されましたけど、基本的には富山-敦賀間の区間運転列車で、上野直通の「かがやき」や「はくたか」に比べると、地味感は否めません。また、グランクラスも連結されて利用は出来ますが、富山-敦賀間正味1時間で(速達列車だともう少し運転時間は短い)、グランクラスを利用する人っているのかな?
【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
国鉄監修・交通公社の時刻表 1978年8月号 (日本交通公社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳第6号「北信越」 (新潮社 刊)
鉄道ピクトリアルNo.791 (電気車研究会社 刊)
JR時刻表 2024年4月号
鉄ぶらブックス①「伝説のブルートレイン全列車」
(いずれも交通新聞社 刊)