国鉄近代化の二大レジェンドである20系客車とキハ82系気動車。20系は客車列車、夜行列車の概念を根本から変え、キハ82系はキハ58系と共に非電化区間の速達化を推進した立役者。これらに151系電車や153系電車を加えて、鉄道による長距離輸送を一変させました。まぁ、東海道新幹線が開業してその勢力分布図は東海道~山陽を中心に変化していきますが、その立ち位置は揺るぎませんでした。

 

さて、画像は20系とキハ82系を使った特急列車ということになりますが、何処で撮ったものなんだろう?

時代的に言うと、20系「瀬戸」の登場が昭和47年3月で、キハ82系「かもめ」の廃止が昭和50年3月。だから、その3年間に撮られたものと思われますが、どう考えても定期の「瀬戸」と「かもめ」が邂逅するのはあり得ないんですよね。

 

えぇ~っと、画像を見る限り、「瀬戸」の殿がナハネフ22なので、画像手前が東京方、奥が大阪方になります。つまり「瀬戸」は下り列車になります。これが先ず一つ。

それから、画像の左端に見えるのは新幹線のホームでしょう。「かもめ」が停車しているのを考えれば、撮影場所で考えられるのは、京都か姫路か岡山かになりますけど、プラットホームが湾曲している部分が何か京都駅っぽいし(岡山駅はこんなに湾曲していない)、また京都駅をホームの無い線路を走っているので、京都説がさらに濃厚になります(姫路説なら、ホームのある線路に入線しますしね)。

 

昭和49年1月現在、「かもめ」の京都発は7時30分、姫路着が9時10分、岡山着が10時12分になりますが、「瀬戸」が早朝に最初に到着するのが姫路で4時04分、岡山着が5時22分、京都は完全な通過か運転停車かの何れかですが、客扱いはしません。「かもめ」の京都-姫路間が1時間40分で、京都-岡山間が2時間42分。それを一つの例として挙げてそこから逆算したら、「瀬戸」の京都通過は2時40分頃になろうかと思います。つまり、「瀬戸」は京都を5時間以上遅れて通過しております。既にこの頃は寝台特急の110km/h運転が実施されているので、「かもめ」とは速度に開きが出ますが、それでも30分とか1時間の差は発生しないでしょう。

 

踏切事故、機関車や客車の故障、この頃だったらストライキや遵法闘争といった労使対立等々、様々な原因が考えられますが、このままの推移で走り続ければ、「瀬戸」の宇野到着は昼の11時~12時頃。何処かで打ち切りという選択は考えなかったのでしょうか? もしかすると、5時間の遅れですから、途中(米原辺り)で打ち切って乗客は新幹線に振り替えさせて、事実上の回送扱いで宇野まで行ったとも考えられます。

瀬戸大橋が無い頃、宇野線と宇高連絡船は本州と四国を結ぶ重要なアクセスの一つ。一度(ひとたび)列車がトラブれば、四国への連絡もままならなくなりますが、普段は顔を合わせない両者の邂逅を見られたのはある意味、幸運だったのかもしれませんね。

 

 

【画像提供】

タ様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表 1974年1月号 (日本交通公社 刊)

ウィキペディア(京都駅、姫路駅、岡山駅など)