またまた貴重な画像を提供していただきました。

登場間もない頃の寝台特急「みずほ」ですが、昭和37年撮影とのこと。これ、横浜駅でしょうね。画像左奥の鉄橋は東急東横線です。前日夜に熊本を出発した上り「みずほ」が東京へ向けてラストスパートをかけてるシーンということになります。運転開始直後の時間とさほどダイヤは変わっていないので、上り「みずほ」の横浜発は11時05分です。

 

俗に言う「九州特急」の中で、一般客車を使って運転を開始したのは「みずほ」が最後で、次に登場した「富士」はデビュー当初から20系でした。

「あさかぜ」の成功で次々に設定した東京発九州方面行きの夜行特急。長崎行きの「さちかぜ(→平和→さくら)」、鹿児島行きの「はやぶさ」と続きますが、輸送のメインはやはり九州最大の商業都市である博多までで、長崎や鹿児島は “申し訳程度” で行かせていたと考えられます。しかし、航空機網は発達しておらず、新幹線はやっと計画が本格化したという時代ですから、長崎や鹿児島への需要も少なからずありましたが、令和の感覚で東京と長崎、鹿児島を在来線だけで移動するとなると、1日は完全に潰れますし、死にます。

 

そんな状況で九州特急の需要はますます高まり、昭和35年末から昭和36年初めまで東京-熊本間に臨時の夜行特急が設定されました。これは「あさかぜ」の臨時便という触れ込みで、ロザと食堂車は連結されなかったものの、ロネ2両、ハネ7両、ハザ3両という布陣で運行されました。列車名こそ「あさかぜ」でしたが、これが「みずほ」の原型になります。

「全国特急網確立」が大きなテーマになった昭和36年10月の改正で、この「臨時あさかぜ」が毎日運転の不定期列車に格上げされた際に、新たに「みずほ」の愛称が与えられました。

既に20系客車は登場していましたが、「みずほ」用に増備はされず、10系を主体にした一般客車を使用しての運行開始でした。13両編成のうち、熊本まで行くのは1~7号車までで、8号車~13号車は博多で切り離されました。ロザと食堂車は連結されていましたが、運行開始当初のロザは旧型のスロ54でした。

 

東京-熊本間の所要時間は19時間ちょうど。現在の新幹線と比較してもその差は歴然なんですけど、東京からだと熊本方面の列車と接続があまりよろしくないので(新幹線の「みずほ」も極端に定期運行が少ないし)、乗り換え無しでそのままというメリットはあるのかもしれません。

ダイヤ的には下りの場合、「あさかぜ」の10分前を、上りは「さくら」の15分後に運転されていたので、最初から「あさかぜ」や「さくら」のフォロワーという立ち位置だったんですね。廃止まで変わらなかったと思います。

昭和37年10月の改正で「みずほ」は定期列車となりました。この時、ロザがナロ10になり、ハネはナハネ11からオハネ17に変更されていますが、「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」が20系を使っているのに、「みずほ」は10系のままでサービスレベルの低下は否めません。当然、「「みずほ」にも20系を」という声が高まります。これに応える形で昭和38年6月から「みずほ」にも20系が投入されました。と同時に、付属編成を大分まで行かせることにして、日豊本線にも寝台特急が走るようになります。

 

ところで、一般客車時代の「みずほ」の殿(しんがり)は両端スハフ43でしたが、座席は固定されていたため、上り列車はどうしてたんだろう? 常に進行方向に座席を配置させるには方転させる必要がありますが、熊本まで行く列車(車両)は熊本の転車台で方転させ、博多折り返し分はいわゆる「三角線(「みすみせん」じゃありません)」を使ったのか? 44系はそれが生じるから面倒臭いといえば面倒臭いですよね。何故かハザは10系になることは無かったです。

 

そんな「みずほ」も気がつけば新幹線の、しかも九州新幹線の速達列車に愛称が受け継がれましたが、前述のように運転本数が少ないですね。毎日運転の列車は上下合わせて8本しかないのに驚きました。九州新幹線のフラッグシップとしてはあまりにも存在感なさ過ぎ。んだったら、寝台特急としての栄光を保持したまま、「富士」同様に列車名を封印した方が「みずほ」の名誉のためには良かったのかもしれませんね。「つばめ」にも言えることですが、JR九州は名誉ある列車名を「何考えてるんだ?」的にロクな使い方しかしないしね・・。

 

 

【画像提供】

コ様

【参考文献・引用】

鉄道ファンNo.401 (交友社 刊)

JR時刻表2024年4月号 (交通新聞社 刊)