3月16日、北陸新幹線の金沢-敦賀間が延長開業し、並行する区間の北陸本線は第三セクター、何とかふくい線に降格させられてしまいました。

先日お伝えした、「サンダーバード」「しらさぎ」の運転区間短縮に伴って、北陸特急の歴史は事実上、絶たれたことになりますが、「サンダーバード」の前身である「雷鳥」を始めとして、「しらさぎ」「白鳥」「北越」「加越」「白山」「はくたか」「日本海」「つるぎ」・・と踵を接して駆け巡った北陸特急の栄華はこの先も誰かが語り部になって伝えていってくれることでしょう。

 

 

その中にあって、やはり「雷鳥」は歴史的、本数的に見ても北陸特急の絶対王者であるのは誰もが納得する事案だと思いますが、同時に東の「ひばり」とともに485系を使った代表的列車であること、そしてエル特急の西の横綱格であることも紛れもない事実だったりします。

 

「雷鳥」が運転を開始したのは東海道新幹線が開業した昭和39年ですが、本来であれば新幹線が開業した10月1日から運転を開始すべく、時刻表にも載せていたのに、実際の運転開始日は約3ヶ月遅れの12月25日でした。これは481系の完成が大幅に遅れたためで、10月の段階で納期が間に合わないことを知った国鉄は、「10月はいいから、とにかく年末輸送には間に合わせれ」とメーカーのケツを叩き、どうにかこうにか年末輸送には間に合わせたという逸話を何処かで聞いたことがあります。なお、ある媒体で「「雷鳥」は北陸本線初の特急列車である」という記述を見かけましたけど(鉄道に疎いマイナーな雑誌だったと記憶)、北陸本線初の特急列車は「白鳥」であるのは鉄道愛好者なら誰でも知っている史実ですよね。

 

運転開始当初は1往復運転だったのが、その2年後には1往復、さらに43.10改正ではまた1往復増発され、「北陸特急絶対王者」としての足固めを徐々に構築することになります。

山陽新幹線博多開業の昭和50年3月には12往復まで増え、この段階でエル特急に “推挙” されました。なお、「雷鳥」は昭和49年7月から湖西線経由に変更され、北陸への所要時間が短縮されました。

 

運転開始当初から一貫して485系(481系含む)を使ってきた「雷鳥」ですが、「白山」との共通運用の兼ね合いから一時期だけ489系を使ったことがあります。そして昭和53年10月の改正で16往復にまで成長し、「ひばり」の15往復を抜いて新幹線を除く国鉄特急の中で最大勢力となりましたが、うち4往復は583系が充てられました。「雷鳥」史上初の他形式投入になります(注:489系も他形式っちゃあ他形式だけど、基本的には485系グループなので、485系に含めます)。ただ、583系使用列車は、485系と違って乗り心地があまりよろしくないという低い評価だったことから、短期間で485系に置き換わっています。

またこの改正では、大阪-新潟間を結んでいた「北越」を吸収する形で新潟へ足を延ばすようになります。

 

「1日辺り運転本数最大」というタイトルは昭和55年10月の改正で「有明」に奪取されますが、上越新幹線が開業した昭和57年11月の改正では「有明」の減便、「雷鳥」の増便でタイトルを奪還します。しかし、昭和60年3月の改正で「ひたち」が23往復運転となって「雷鳥」はタイトルホルダーから陥落、以降、「雷鳥」がタイトルに絡むことは無くなりました。

国鉄末期の「雷鳥」は和風電車「だんらん」の連結、さらに和倉温泉へ行くジョイフルトレイン「ゆぅトピア和倉」を併結するなど、ホスピタリティ的に変化が生じています。

 

画像は485系の中でも異端児的且つ流浪な存在である1500番代を連結した編成。

国鉄最後のダイヤ改正である昭和61年11月に撮影したとのことで、車両面でも国鉄末期における「雷鳥」の目まぐるしさが判ろうもの。

485系フリークなら説明する必要は無いのですが、元々、485系1500番代は北海道向けの車両でした。

電化が完成していた函館本線の札幌圏内において、札幌と旭川という二大都市を結ぶ電車特急の運転が計画され、最初は近郊形711系をベースにした特急用車両を企画しました。しかし、交流機器に必要なポリ塩化ビフェニル(PCB)が有毒であることが判り、これが改善されるまで交流専用車両の製造は出来なくなりました。頭を抱えた国鉄はその代替措置として485系の北海道バージョンを製造することを決め、昭和49年に登場したのが1500番代で、本州での試用期間を経て渡道し、昭和50年7月から「いしかり」としてデビューしますが、運転開始が夏場だったので、最初は「こんな快適な列車があるんだ」と北海道のビジネスマンは手を叩いて喜びました。しかし、1500番代の本領が発揮されるはずだった最初の冬季シーズンで早くもその期待が裏切られました。北海道独特の粉雪が1500番代の機器類を容赦なく痛めつけたのです。そのため、「いしかり」は計画運休を余儀なくされるなど、順風ではありませんでした。その後、PCB問題が解決され、北海道専用車両である781系が登場すると、昭和55年10月に485系1500番代は御役御免になって本州へ戻り、「はつかり」や「やまびこ」など、東北特急で使われることになります。

 

22両製造された1500番代は、57.11改正時で全車が青森運転所(盛アオ)にいましたが、60.3改正で電動車ユニットを向日町運転所(大ムコ)に転籍させ、「雷鳥」「北越」「白鳥」に充当。これが485系1500番代と「雷鳥」との初めての邂逅になります。そして61.11改正で「雷鳥」の運用の一部を新潟の上沼垂運転区(新ニイ~現在のJR東日本新潟車両センター)に移管した関係で車両も上沼垂に転配させました。この中には1500番代の電動車ユニット全車も含まれており、大阪(京都)の水は1500番代にとって合わなかったのかな? また、青森にいた1500番代の制御車も一部が新潟に転配され、久々にクハとモハが再会したことになります。

 

当時の編成を見ると、先頭が1500番代の編成は3編成ありましたが、電動車ユニットは1000番代でした。編成番号が表示されていないのでどの編成なのかは判りませんが、クハ481-1503、1505、1507の何れかになります。

民営化後の1500番代は基本的にはJR東日本に引き継がれましたが、改造の種車になったりするなど生き別れとなりました。ただ、奇跡的にクハ481-1508だけは廃車後、新潟にある新津鉄道記念館に保存されています。全国にある鉄道関連の博物館で485系の展示車は全てボンネット車なんですが、新津のクハ481-1508が唯一の “電気釜スタイル” の先頭車ということで特筆に値します。

 

485系「雷鳥」の運転終了は平成23年3月11日。運転開始からあともう少しで50年という大金字塔だったのですが、JR西日本はそれを待てず、全て「サンダーバード」に統一しました。しかし、その日は東日本大震災と原発事故が発生して日本中がパニックになっていたため、誰にも気づかれず485系の老舗列車はひっそりと鉄路から消えました。

 

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.897 (電気車研究会社 刊)

列伝シリーズ④「雷鳥&サンダーバード列伝」 (イカロス出版社 刊)

復刻・増補国鉄電車編成表1985年版

復刻版国鉄電車編成表1986.11ダイヤ改正版

(いずれも交通新聞社 刊)

エル特急大図鑑 (天夢人社 刊)

ウィキペディア(有明、新津鉄道記念館、PCBなど)