ブルートレインブームの真っ只中にあった昭和50年代、善し悪しは別として、発行されるブルートレイン関連の書籍は売れまくりました。掲載されているブルートレインの写真を羨望の眼差しで “見とれていた” 昭和の鼻たれ小僧は数多いるかと思いますが、私を含めて皆、アラフィフの中年オヤジになっています。九州や東北は明るい時間帯に下り列車が撮れますが、東京や大阪は終着間近の上り列車がターゲットになります。大阪近辺だと塩屋-須磨間や芦屋-西ノ宮間、そして向日町運転所に回送される列車を山崎駅で捉えることが多いかと思いますが、関東だと湯河原-真鶴間、真鶴-根府川間、戸塚-保土ケ谷間、蓮田-東大宮間辺りが著名な撮影地になります。そしてもう一つ、忘れられないのが三島-函南間で、特に「竹倉踏切」周辺が “鉄” 的に言えば「お立ち台」の名所になります。

三島-函南間は何と言っても、ブルートレインと富士山を組み合わせるのが最大の狙いで、雪が被る晩秋から晩春までが撮影にうってつけとなります。

 

そして、ブルートレインの合間に画像のような “脇役” 的な車両や列車にもレンズを向けることもあります。撮り鉄的にはウォーミングアップを兼ねているんでしょうね。

昭和国鉄の時代、新幹線に輸送シフトが奪われても、東海道本線は大動脈であり続けました。そのせいか、ブルートレインだけでなく、旅客も貨物も電車も客車もスターを立てるバイプレイヤーが踵を接して行き交っていました。それがまた、良い味を出しているから撮るに足りるし、後々 “伝説” として語り継がれることになります。

 

国鉄末期の昭和61年まで郵便荷物輸送は継続されていましたが、電車による郵便荷物輸送の代表的車両がクモユニ74になります。

東海道線向けに旧型国電72・73系の足回りを活用して、車体を新製した郵便荷物合造車で、昭和37年に登場しました。111系や153系にくっつくことを前提とした設計になっています。

画像はデカ目が特徴的な0番代で、他に80系電車との併結が可能な100番代、東北・高崎線向けに寒さ対策を強化した200番代で構成されています。クハ103ATC車を思わせる幅を狭めた前面窓、その下に前照灯という顔貌はその後登場するクモニ83やクモニ143などにも受け継がれ、「国鉄ニモデンと言えばこの顔」を確立しました。

クモユニ単体での運用もあれば、前述のように111/113系や153系にくっついて走ることもありましたが、どちらも東海道本線では日常的な光景でした。

 

国鉄の郵便荷物輸送は昭和61年11月のダイヤ改正で廃止され、クモユニ74はJRに継承されることはありませんでしたが、今でも「クモユニ74ってぇのがいたんだぜ(忌野清志郎風に)」という足跡のようなものが見られます。それがこちら。

 

 

皆さんも一度はその姿を見かけたことがあろうかと思いますが、品川駅構内に設置された郵便ポストがクモユニ74風に作られています。確か設置時は「南チタ」だった表記も今は「東トウ」になっています。でも田町電車区に配置履歴はあっても、当時の品川電車区時代を含めて東京総合車両センターに配置されたことはありません。

 

鉄道による郵便輸送、復活しないかな?

したら私、すぐに異動願出すし。

 

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.931 (電気車研究会社 刊)