関門トンネル専用機のEF30が重連で貨物列車を牽引しています。撮影地は下関-幡生間。

「あれっ!? EF30の受け持ちは下関-門司間だけじゃないの?」とお思いの方もいるかと思いますが、下関-門司間の受け持ちは客車列車で、貨物列車は門司操車場・東小倉駅-幡生操車場間になります。さらに旅客列車は単機、貨物列車は重連での運用が基本。ですから、EF30の重連が山陽本線下関以東を走るのは珍しくも何ともありません。運用上の関係で三重連、四重連になることもありました。

 

EF30は門司機関区を塒にしていますが、本州側では下関運転所幡生支所でしばしの休憩を取ります。旅客列車を牽引した場合は下関駅構内で九州への列車を待つことになりますが、421系登場以降、関門間の旅客列車は電車化されていたみたいで、客車による旅客列車はというと、朝夜に発着する夜行列車に限られていたようです。だから、夜行列車を牽引して次の運用が貨物列車というのもあったのでしょう、そういう運用の場合は幡生へ回送することになると思われますが、EF30が下関運転所の本所で休憩をとることはあったのでしょうか?

 

下関運転所幡生支所にはEF30が休憩を取る他に、EF66が屯しているのも忘れてはなりません。

下関運転所に配置されるEF66は、配置こそ下関運転所ですが、下関本所に殆ど顔を見せず、幡生支所が塒で仕業検査も幡生で行います。当時は貨物列車専用だったので、こういう措置が採られたと思われますが、ブルートレインを牽引するようになってからは日常的に下関本所に顔を出すようになります。また、貨物列車牽引を生業としていたEF65やEF60も幡生で休憩を取っていました。なお、同じ関門トンネル専用機のEF81 300番代は旅客列車専用だったので、幡生に姿を見せることはありません。また、幡生支所の乗務員は幡生-柳井間が担当で、EF30と山陰本線のDD51には乗務しません。

 

話をEF30に戻します。

画像は今から約半世紀前の昭和49年に撮影されたとのことですが、この頃はまだまだEF30の需要がありまして、旅客に貨物に八面六臂の活躍を見せるのですが、昭和50年に山陽新幹線が博多まで全通すると夜行列車の整理が実施され、特に関西対九州の夜行列車は減少します。さらに貨物列車も減少傾向にあり、EF30も余剰が発生するようになります。特に59.2改正ではヤード輸送方式の貨物列車は基本的に全廃され、拠点直行方式のコンテナ輸送に切り替えると、EF30は一気に淘汰されます。動態保存を目的として3号機だけがJRに継承されましたが、目立った活躍を見せることなく、平成7年に廃車。ここでEF30は廃形式になります。それでも塒だった大分運転所に10年くらい放置プレイで、平成18年に解体されました。その前頭部が九州鉄道記念館に展示されています。そういう意味ではEF30は国鉄時代に廃形式になったといっても過言ではありません。

まともな姿でのEF30は1号機が福岡県の和布刈公園に、20号機が群馬県の碓氷峠鉄道文化むらに静態保存されています。1号機の福岡は全然理解できるのですが、縁もゆかりもない碓氷峠に何故EF30が・・・?

 

国鉄末期の昭和61年夏、沼津機関区100周年を記念して、機関車の撮影会が行われました。この時、SLからDLまで各地から機関車が集められて大盛況で終わったのですが、この延長線上で高崎に「機関車博物館をつくる」という構想が持ち上がります。沼津で集めた機関車をそのまま高崎に持っていったのもあれば、新たに持ってきた機関車もあり、EF30はその中に含まれていました(沼津で展示されたのは17号機、高崎に持っていったのは20号機)。

機関車博物館構想は何らかの事情で頓挫しますが、集めた機関車のその大多数が碓氷峠鉄道文化むらに継承された格好になります。

 

1号機は貴重な「鉄道遺産」だと思うので、公園での放置プレイなら、九州鉄道記念館での保存が望ましいと思いますが、JR九州はそこまで考えていないか。

 

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

鉄道ファンNo.306 (交友社 刊)

鉄道ジャーナルNo.200 (鉄道ジャーナル社 刊)

国鉄機関車 激動11年間の記録 (イカロス出版社 刊)

ウィキペディア(国鉄EF30形電気機関車)