昭和30年代からスタートした蒸気機関車全廃計画、いわゆる「無煙化」は昭和40年代に入ると急激に加速します。幹線の電化もそうですが、非電化区間においてSLの後継というべきディーゼル機関車の本命であるDD51とDE10が本格量産に入ったためで、程なくして総数的にディーゼル機関車の両数が蒸気機関車を上回ります。幹線旅客列車の牽引はディーゼル機関車に置き換わるか、気動車化が進み、DD51が入線できない亜幹線ではDF50かDD54に置き換わるか、こちらも気動車化が進められ、蒸気機関車の居場所が徐々に狭められます。そんな中、後継ディーゼル機関車が開発されないがため、比較的遅くまで蒸気機関車が活躍していたのが、「簡易線」とも言われる線路規格の低いローカル線。勿論、気動車化された路線もありますが、貨物列車とかはどうしても機関車が牽引しなければならないので(路線によっては気動車が貨車を引っ張るケースもあった)、C12やC56といった小型蒸気機関車が活躍していました。それを置き換えるために開発されたのがDD16というディーゼル機関車です。

 

 

DD16は昭和46年に1号機と2号機が産声を上げて、昭和50年までに65両が製造されました。

DE10やDE11を押し潰したかのようなスタイルですが、軸配置BーBのD級機関車で、車体や台車の軽量化で運転整備重量48t(軸重12t)を実現しています。

 

エンジンはDD51の初期車(~19号機)が搭載していたのを一旦下ろして、出力をダウンさせて搭載しました。増備途中でやはりDD51の初期車(20号機以降)に搭載していたインタークーラー付きのエンジン(DML61Z)をパワーダウンさせて搭載しました。

液体変速機もDD51と同じものを搭載していますが、減速比を大きくしています。でも、当初から客車牽引は念頭に入れていなかったので、列車暖房用の蒸気発生装置(SG)は搭載していません。また、重連運用は最初から考えていない設計になっています(但し、セルフラップ式の空気ブレーキ装置はDE10と同じものを採用)。

 

DD16の特筆すべきことは、量産試作車の1号機と2号機が国鉄長野工場で製造されたこと。SLでは数多記録がある国鉄工場製の機関車ですが、戦後初と同時にSL以外の機関車が国鉄の工場で製造されるのは初めてでした。

65両製造されたDD16のうち、大糸線や飯山線向けにラッセルヘッドを取り付け可能に4両が改造されて、別途、300番代として番号を設けました。

 

北海道から九州まで日本全国でその姿を見る事が出来ましたが、当然のことながら、東京や大阪といった大都市圏では無縁の機関車でした。

一番有名だったのはやはり、長野の小海線での運用ではないでしょうか。C56の独壇場だった、野辺山エリアで発送される高原野菜を運搬するシーンはDD16きっての名場面と言えます。

 

昭和50年代後半になると、ローカル線での貨物営業も終了したことによって行き場を失った機関車も少なくありませんが、それでも10両がJRに引き継がれました。

令和3年までJR東日本長野総合車両センターに配備される11号機が残存しており、飯山線などでイベント列車を牽引していましたが、同年12月に廃車されてしまい、これによってDD16は廃形式となりました。

 

画像の14号機は旋回窓が特徴の、A寒地仕様ということで、最初は北海道かなって思ったのですが、撮影地は山形駅だそうです。

14号機はJRに継承されることなく、昭和61年3月に廃車されていますが、生涯を山形に捧げた機関車です。統合等で新庄機関区に転配されていますが、山形駅での入れ換えが日常だったそうです。どうも、山形(新庄)にはDD16はこれ1両だけだそうで、ある意味貴重な1枚なのかなと思います。

300番代には改造されませんでした。

 

電気機関車ほどバリエーションが多くなかった国鉄のディーゼル機関車。でも、蒸気機関車のDNAを受け継いでいる以上、用途的、形式的にはなかなかな増殖ぶりだと思います。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

国鉄機関車 激動11年間の記録 (イカロス出版社 刊)

Remember the DD16

ウィキペディア(国鉄DD16形ディーゼル機関車)