国鉄気動車の歴史を語る際、外せないであろう「悲運の名車」「偉大なる失敗作」的車両がレールバス。

昭和も令和も国鉄/JRのローカル線問題は頭痛の種であることに変わりは無いんですが、レールバスはそんな国鉄の閑散路線向けに開発されました。

 

以前にもこのコーナーでレールバスを取り上げたことがありましたが、お復習いをします。

時は昭和20年代まで遡ります。

第二次世界大戦でこれでもかというくらいに壊滅的な被害を受けた国鉄ですが、終戦後、時間はかかりながらも復興に向けて国鉄は奔走します。そんな中、昭和28年に時の国鉄総裁自ら欧米の鉄道事情を視察しますが、西ドイツを訪問した際に1両の小型ディーゼルカーが総裁の琴線に触れます。「シーネンオムニバス」と呼ばれる小型二軸の単車は、製造費が安く、動力費も大幅に削減出来るというコスパに優れた車両で、帰国後、経営効率化の一環としてこの小型ディーゼル動車の開発を指示します。つまりはレールバスの開発は国鉄総裁の肝いりだったわけですが、既にこの頃は大型のキハ45000系列(→キハ10系)の量産が軌道に乗っており、幹線、ローカル線に限らず、国鉄非電化路線の近代化に一役買っていた時期とリンクします。そこにわざわざ小型車両を導入するのはコスト的にどうかという消極的な意見が相次ぎ、「とりあえず、試験車両を造って比較検討してみよう」ということになり、東急車輌(→総合車両製作所)の協力を得てプロジェクトはスタートしました。

 

説明するまでもなく、レールバス最大の特徴はバスの部品を多用していること。

シーネンオムニバスは車体と足回りは別々に造られており、そういう意味ではバスと同じ製造工程になります。日本のバスも基本的にはシャシーとボディは別々の会社で造られています。例えば、日産ディーゼルが製造した足回りを富士重工の工場に持っていって、そこで同社が製造した車体を組み合わせる・・という感じでバスの製造は昔も今もこんな製法で造られています。自動車レースのF1もそうですよね。マクラーレン・ホンダやウィリアムズ・ルノーみたいにエンジンと車体は別々の会社で造られます。

現在、日本のバスメーカーはいすゞ/日野、三菱ふそうだけになった上、シャシー屋さんとボディ屋さんは子会社化して一本化されていますので(いすゞ/日野=ジェイ・バス、三菱ふそう=三菱ふそうバス製造)、F1で言えばフェラーリみたいになっています。

 

話を戻します。

先ほど「レールバスはバスの部品を多く用いている」とお話ししましたが、具体例を挙げると・・

レールバスの車体は10mそこそこの長さでバスに似ていますが、当然、まんまバスの車体を流用しているわけではありません。因みに青森県の南部縦貫鉄道名物のキハ10形は富士重工製のバス用車体を流用したのは有名ですけどね。

乗降用扉は両端に1ヶ所ずつ。戸袋窓を廃するため、バスと同じ折戸を採用しました。

側窓は上部固定式、下部上昇式としました。いわゆる「バス窓」ってやつですね。

定員は座席40、立席12の52人乗りです。

室内灯もバス用20Wのものを採用しています。

ワイパーは「セニア強力型」と呼ばれる自動車用のものを搭載しています。

エンジンは日野製のバス用エンジンを鉄道用に改良して搭載しました。

制御は機械式で、バスと同じクラッチとギアシフトが装備されています。

さすがにエンジンを除いた足回りはバス用のものを流用出来ないので、鉄道オリジナルになりますが、表向きの最高速度を70km/hにしているため、バネ吊り装置は高速貨車用の2段リンクとしました。

 

キハ10000形と名付けられた試作のレールバスは当初、福島県の白棚線に投入される予定でした。

東北本線の白河と水郡線の磐城棚倉間を結ぶ白棚線は昭和19年に不要不急路線として休止に追い込まれまして、線路は軍に供出されてしまい、以降はバスが代行運転していました。

終戦後に「白棚線の復活を」という沿線住民の声もあり、実際に国鉄も経営効率化のモデル線区として復活に向けた具体案が示されるものの、様々な調査の結果、復活後におけるこれといった経営効率化が見出せず、鉄道路線としては再生不可能と判断され、線路跡は整備された上で国鉄バス専用道路となりました。

 

白棚線への投入は消えましたが、受け皿になったのが千葉鉄道管理局で、閑散路線としてその行く末が案じられていた木原線に投入されることになり、キハ10000形は昭和29年9月から正式にデビューと相成りましたが、今で言うフリークエントサービスを実施して列車を増発したまでは良いんですが、大々的にプレゼンしたことによる誘発で乗客が殺到、一部の列車で乗客が乗り切れない事態になるなど、誤算も発生しました。それでも「ローカル線に投入して経営効率化を図る」という目的は概ね達成され、最初のうちだけは乗客にも好評裏で迎え入れられました。そうなると、各鉄道管理局から「ウチの路線にも是非、レールバスを」という声が高まるようになります。特に動きが活発だったのが北海道の旭川鉄道管理局。確かに旭鉄局管轄内は閑散路線の宝庫で、レールバス投入にはうってつけだったりします。旭鉄局幹部のちょっとした勇み足が問題にもなりましたが、それ以上に問題だったのがレールバスを走らせる地域事情。そう、旭鉄局管内は北海道でも屈指の極寒地。キハ10000は寒地や酷寒値での使用を想定していなかったため、耐寒耐雪装備は施されていません。そこで1両(キハ10003)を北海道に "派遣" して様々なテストを実施します。その結果、昭和30年に耐寒耐雪装備を強化した増備車8両(キハ10004~10011)が製造されて旭鉄局管内の名寄機関区と北見機関区に配置、深名線や石北本線などで運用を開始しました。

 

キハ10000は大小様々な改良を加えながら、昭和31年までに48両が製造されて、北海道から九州まで日本全国に配置されました。

このうち、キハ10012~100028の17両は初めての本格的なマイナーチェンジ車で乗降用扉や前面窓などに大きな変更点が見られます。また、最初から北海道用として製造されたグループは別途、番号が用意されて200番代となりました。

昭和32年に形式称号の改正が行われ、

 

キハ10000~10003 キハ01 1~4

キハ10004~10011 キハ01 51~58

キハ10012~10028 キハ02 1~17

キハ10200~10219 キハ03 1~20

 

となりました。

画像はマイナーチェンジ車のキハ02で、車番から旧番号はキハ10014となります。

新製は昭和30年12月で、北海道の遠軽機関区が最初の配置区でしたが、程なくして本州に活躍の場を移し、最終配置は木次機関区でした。

 

ただ、皮肉なことに全車が出揃って活躍を始める頃は、時あたかも高度経済成長期。専業農家から兼業農家に転換する頃とリンクします。つまり、農家の人も都会へ会社勤めするようになり、朝の通勤時にはレールバスが全く使い物にならなくなっていきます。キハ10やキハ20は総括制御が可能でその気になれば10両編成も組めますが、レールバスはどんなに頑張っても2両運転が限界。これでは朝の通勤客を捌くことは出来ません。加えて足回りが貨車のバネ吊りを改良している二軸車なので、乗り心地は極めて悪く、実働期間は10年あるかないかという短さ。そのような理由で次々と大型車に置き換わってしまい、昭和42年までに全車が引退に追い込まれます。

現在、キハ03 1(旧キハ10200)が小樽市にある小樽交通記念館に静態保存されており、廃車後すぐの昭和42年には準鉄道記念物に指定されています。

 

さて、画像のキハ02ですが、最終配置が木次ということで、多分木次線だと思われますが、撮影地は何処でしょうかねぇ~?

腕木式信号機もなかなか味があります。

でも、私にとってキハ02といえば、やはりトミックスのNゲージモデルでしょう。それも香港製の旧製品ね。

購入時から調子が悪くてまともに動いたことがありませんが、Cタイプディーゼル機関車とともに、当時のトミックス車両の中では一番安かった動力車(¥1,900-)でした。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

RM Re-Library10「国鉄の個性派気動車」 (ネコ・パブリッシング社 刊)