今は完全に航空機が掌握している首都圏と北海道の移動シェア。この先、北海道新幹線が札幌まで開業したとしても、JR北海道のジリ貧さと経営能力を考えた場合、そのシェアを逆転するのは不可能かと思います。それでももし私が今後北海道に行くとしたら、鉄道を使うと思うんですが、青函トンネルの "限界説" も囁かれている昨今、どう巻き返しを図るのか注目されます。

 

そんな首都圏対北海道の移動手段、航空機網が発達する前の主役は説明するまでもなく鉄道でした。しかし、青函トンネルが開通していない時代、どうやって青森まで早く到達出来るかが国鉄の課せられた課題でした。青函連絡船は頑張っても頑張らなくても3時間50分運航は変化ないし、函館⇔札幌間もひたすら電化されていない線路をディーゼルエンジンのパワーだけで走るわけだからスピードアップは望めません。そうすると頼みの綱は上野⇔青森間になるわけですが、国鉄はそっちを優先して昭和43年10月までに東北本線と常磐線の二大幹線を電化させました。

 

東北本線は文字通り、東北への重要なルートとして活用されていましたが、時間的にアドバンテージがあるのは常磐線。だから東北方面への優等列車、特に北海道連絡を使命としていた優等列車は常磐線を経由していました。黒磯辺りまでは関東平野を突き抜けるため平坦区間が続きますが、黒磯を過ぎると信越本線の碓氷峠や山陽本線の瀬野-八本松間、奥羽本線の板谷峠、そして上越線の上越国境越えほどではないにしても、険しい山岳区間になり、それが足枷となっていました。常磐線は全線にわたってなだらかな平坦区間が続きますので、機関車や気動車が喘ぐことはありません。

 

電化されると、優等列車は次々に電車化されますが、特急も昼夜問わず電車に切り替わります。でも485系は北海道連絡列車にはしばらくの間使われず、昼夜兼行の583系がメインで使用されました。昼の主役は「はつかり」ですが、夜の主役は画像の「はくつる」と「ゆうづる」。このうち本数が多いのは「ゆうづる」でした。「はくつる」は国鉄時代の一時期、民営化後の一時期を除いて1往復運転を堅持していたのに対し、「ゆうづる」は客電併せて最盛期には7往復が設定されていました。これも多分、「常磐線経由の方がアドバンテージがある」典型例でしょう。逆に昼行は「はつかり」が最盛期6往復設定されてたのに対し、常磐線経由は「みちのく」1往復だけ。この「みちのく」は気動車時代の「はつかり」のスジを受け継ぐ形で10年間だけ運転されていました。

 

青森運転所(盛アオ)の583系は13両編成という徒党を組んでいたため、輸送力に関しては群を抜いていましたが、冬季になると常に雪害に悩まされていて、五体満足の車両は皆無だったと言われています。簡易的な耐寒耐雪装備は施されていたのでしょうけど、東北地方の寒さと雪の量はハンパないですから、同じ583系でも西日本向けの車両とは別に考える必要があったのでは? と今も思ったりします。東日本向けは別途、耐寒耐雪装備を強化したバージョンを製作するとかね。まぁ、北陸地方にも時折、想像を絶するドカ雪が降ったりしますから、583系の計画段階で「耐寒耐雪装備の強化」は考えるべきだったのかなと。

 

子供の頃はそんなに好きじゃなかった583系。今は「名車」と呼ぶに相応しいと考えていますが、その栄華は長く続かなかった「悲運の名車」でもあります。

 

 

【画像提供】

タ様

【参考文献・引用】

日本鉄道旅行歴史地図帳第2号「東北」 (新潮社 刊)