ターミナルっぽいけど、大都会か地方都市か、幹線かローカル線か、パッと見はどちらとも言えない構図ですよね。

でも、画像背後に見える高架の道路は高速道路です。ということは、どう贔屓目で見ても地方都市ではありません。平成や令和だったら判らないけど、間違っても昭和ですので。

 

在阪のおじさんおばちゃん、大阪出身のおじさんおばちゃんなら「おぉ~っ!」と唸るであろうこの光景、実は大阪市。しかも大阪・・というより関西一の大繁華街、難波です。

「大都市大阪にこんなローカルな風景があったなんて・・」と思われるかもしれませんが、出発を待つ気動車群は関西本線の列車。そう、正解は湊町駅、現在のJR難波駅になります。駅名が改称されて来年9月で30年を迎えますが、駅として歴史は湊町時代から継続されていますので、今年で134年。もしかすると来年辺り、「湊町駅が誕生して135年、「JR難波」と駅名を改称して30年」ということでイベントをやりそうな、そんな予感が・・・。

 

関西本線は元々、関西鉄道という私鉄で後に国有化されたというのは皆さんもご存じの史実だと思いますが、湊町駅は大阪鉄道の駅として1889年に開業したのがその始まりです。

大阪鉄道は現在の大和路線の一部である湊町-奈良間、大阪環状線の一部である天王寺-玉造-大阪間、和歌山線の一部である王寺-高田間が該当しますが、1900年に関西鉄道に吸収され、その7年後に国有化、関西本線となります。

 

東海道新幹線が開業する前、そして近鉄名古屋線と大阪線が線路幅の関係で伊勢中川での乗り換えを余儀なくされていて、尚且つ "青山越え" が旧線時代だった頃、単線非電化ながら関西本線のアドバンテージは絶大で、また終点の湊町も駅から少し歩けば難波の中心街で、そこから地下鉄を乗り継げば梅田にもそんなに遠くないという点から、旅客輸送が逼迫していた東海道本線をフォローする役割も併せ持ち、東京と湊町を直通で結ぶ列車も設定されていました。有名どころは東海道新幹線開業前後まで運転されていた急行「大和」ですね。

 

その状況が変わるのが昭和34年の近鉄名古屋線の改軌で大阪線との直通運転が可能になったこと。これを機に、名古屋-上本町間に直通特急の運転を開始、昭和36年3月には伊勢中川の短絡線が開通して利便性が飛躍的に向上し(ノンストップ特急はその前年から運転を開始)、関西本線のアドバンテージはみるみるうちに低下します。とどめが昭和39年開業の東海道新幹線。一夜にしてという状況ではないにせよ、東海道本線のフォロワーからローカル線へと、そのアイデンティティは見事なまでに下落しました。この辺りから関西本線は名阪間の都市間輸送としての機能を捨て、名古屋周辺あるいは阪奈間の通勤輸送を柱にした運行体系へと変わっていきます。

とはいえ、名古屋周辺も阪奈間にしても、競合相手は近鉄。それとは対照的に関西本線は相も変わらず単線非電化のまま。勝ち目がないというか、端っから競合する気が無いくらい、近代化を拒んできました。しかし、昭和40年代に入り、宅地化によって沿線人口が増加すると関西本線のキャパシティが限界に達しつつあり、これを重く見た国鉄と同天王寺鉄道管理局はついに関西本線の電化を決意し、昭和48年10月に湊町-奈良間の電化が完成します。同時に快速が大阪環状線に乗り入れて大阪駅まで乗り換え無しで行けるようになり、利便性が向上しました。この快速は現在も設定されており、民営化後に「大和路快速」と愛称を得るわけですが、湊町-奈良間の電化は関西本線にとっては大きな革命と言えます。

 

民営化後の平成6年にJR難波駅と改称されました。関西国際空港開港で関西空港線が開業したことに関連する事案でした。

「JR総持寺」「JR俊徳道」など、JR西日本の駅名には、駅名の前に "JR" を冠する私鉄っぽいケースが散見されますが、その第1号がJR難波駅になります。同時に天王寺駅の短絡線を介して阪和線へ入り、関西空港へと向かう関空快速の運転も開始しました(平成20年にJR難波発着の関空快速は廃止)。

既にこの頃は、地下化工事が進捗しておりまして、完成するのは改称から2年後の平成8年。

地下化に伴って、この広大な風景は過去のものになり、後の再開発で激変しました。

 

さて画像ですが、電化前の湊町駅の風景。昭和47年4月の撮影だそうです。

画面奥が難波の中心地だと思っていたのですが、難波の中心地は画面右側なんですってね。

駅舎は国鉄末期に移転していますが、新も旧も阪神高速(15号堺線)が通っている辺りでした。旧駅舎の跡地には目の前を走る千日前通を整備した上で2002年に複合イベントスペース「湊町リバープレイス」が建ちました。

そして地下化後の構内は大阪シティエアターミナル(OCAT)として活用しています。

 

湊町駅と言えば、画像でも見えるように、広大な貨物ヤードがあったことでも知られています。東京でも新宿駅の構内(タカシマヤタイムズスクエアがある辺り)に広大な貨物ヤードがあって貨物の取り扱いが行われていましたが、大阪だと湊町駅がその代表格かなと思います。東海道方面からだと吹田操車場から城東貨物線を経て竜華操車場で関西本線に乗り入れて湊町へ向かうパターンですが、天王寺駅を貨物列車が堂々と通過していたなんて信じられませんよね。でも、湊町の他に大阪環状線大正駅の先から分かれて港区福崎付近までを結んでいた浪速貨物線もありましたし、野田駅から分かれて大阪市場まで結んでいた大阪市場線もありましたので、昭和50年代までは割と日常的な光景でした。

昭和40年代後半まで蒸気機関車が乗り入れていましたが、大阪の都市部でSLが見られたのはここが最後かな? ヘッドマークが付いているのは臨時列車を牽引した(する?)んでしょうね。

貨物取り扱いは昭和60年3月に、荷物取り扱いは翌年11月にそれぞれ廃止されています。

 

JR難波駅は今後、なにわ筋線が乗り入れてきて関西本線とコンバインすることが決まっています。そして新今宮で南海本線に乗り入れて関西空港へ向かうルートを計画していますが、その計画に阪急が参画するか否かが注目されています。ただ、JR・南海と阪急は線路幅が違いますので、それをどうカバーするのか?

私も1~2回だけ、JR難波駅は使ったことがありますが、難波の中心地とは随分とかけ離れていますね。それ以降、使わなくなりました。かけ離れ度はJR新宿と西武新宿レベルか、山手線東京駅と京葉線東京駅レベルか・・・。どちらにしても、難波へ行く時は地下鉄か阪神がメインになっています。

 

大阪の空って高かったんですね。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

日本鉄道旅行歴史地図帳第4号「東京」 (新潮社 刊)

ウィキペディア(関西本線、JR難波駅、なにわ筋線、近鉄名古屋線、近鉄特急など)