弊愚ブログで、あれは確か5月だったと思いますが、「117系を保存しようよ」って問題提起したことがあります。

京都地区と岡山地区で残っていた117系が “卒業” することが決まり、「JR東海(リニア・鉄道館)では保存されているけど、京都鉄博で保存しませんか?」というものでした。したら、それを知ってか知らずか、京都鉄道博物館で117系の保存が決定したとプレスリリースがありました。


 

保存対象となったのは先頭車のクハ117-1で、長らく吹田総合車両所で保管されていましたが、お色直しされて7月27日に京都貨物駅に回送されました。

7月29日・・今日じゃん、正式に展示が始まるとのことで、塗装し直しただけでなく、所属標記が「大ミハ」になっていることと、前面の種別幕も国鉄デザインの「新快速」にしてあるなど、心憎いレストアを実施しています。

 

老朽化した153系を置き換える目的で117系は登場したのですが、「標準化」ありきだった国鉄にしてはかなり踏み込んだ新型車両でした。まぁ、生まれながらにして「並行する私鉄に打ち勝つ」使命を帯びた車両ということで、2扉転換クロスシートという通勤用(近郊形)電車としては破格のホスピタリティが話題を呼びました。

当時の国鉄は毎年のように運賃が跳ね上がり、加えて労使間の深まる対立など、急激に「国鉄離れ」が進んでいた時代とリンクします。巻き返しを図ろうにも打つ手に苦慮しており、特に関西ではここぞとばかりに私鉄が追い打ちをかけていたので、「私鉄圧勝」は目に見えて顕著でした。

 

そんなプレッシャーの中で117系は健闘した方だと思いますが、これも117系や新快速を語る際に常に口にしてしまう「国鉄時代の新快速は不遇だった」という事案が常に付きまといます。

画像は岸辺駅で撮ったものだそうですが、国鉄時代の新快速は複々線の内側線(電車線)を走っていました。これが運命を左右したのは紛れもない事実です。

昭和45年の新快速運行開始時、国鉄大阪鉄道管理局(大鉄局)は「新快速は複々線の外側線(列車線)を走れるもの」と思って企画した列車ですが、国鉄本社は新快速を列車線で走らせることを認めず、やむなく電車線で走行することにしました。

 

知っている人は知っていますが、国鉄時代における草津-西明石間の複々線、それぞれに縄張りがありました。

「列車線」と呼ばれる外側線は国鉄本社の管轄で、「電車線」と呼ばれる内側線は大鉄局の管轄。もし、新快速が国鉄本社のプロデュースでスタートしたのであれば、列車線を走行出来たのでしょう。でも新快速は大鉄局のアイデアです。

大鉄局としては、あの「万博号」を定期化した列車を想定して新快速を企画したのですが、本社がこれを快く思わず、「どうしても走らせたければ電車線で勝手に走らせろ」とケツまくりました。

 

その兼ね合いもあって、運転開始当初は113系でしたし、急行廃止で余剰が予想される153系を投入する際も横やりを入れ、その置き換え用として117系を登場させるのでさえ、国鉄本社は難色を示しました。このように、国鉄本社と大鉄局は常に対峙してたといっても過言ではありません。蛇足ですが、京阪神緩行線に投入する新型車両も大鉄局としては、「長距離運転になるだけでなく、駅間距離が長いことから、103系では心許ない。だから、101系(103系)の車体に高速運転に適したMT54を搭載した新たな通勤車両を誂えて欲しい」と答申したという言い伝えがあります。

この案件は実は首都圏でもあって、「常磐線快速は毎時高速運転を行っているので、103系ではなくて、103系の車体にMT54を搭載した車両を新規に製造して欲しい」という旨の答申をしたそうです。でも、京阪神緩行線も常磐線快速も結果的には103系投入で蓋をされてしまいました。

 

複々線の内部事情が崩れるのは国鉄最後のダイヤ改正になった昭和61年11月から。

この改正を機に、外側線も大鉄局管轄になり、晴れて新快速が外側線を走れるようになりました。

 

京都鉄博における117系の展示では、単に展示するのではなくて、複雑な「複々線の歴史と翻弄された新快速」を後世に語り継いで欲しいですね。

これは絶対に観に行くっ!

 

 

【画像提供】

117系そのものはい様

クハ117-1の形式標記は茂羽根五八三撮影