東京の小中学生は昨日辺りが終業式で、夏休みに入りました。そしてここ2~3年とは違って、コロナでの制限が緩和されていることから、今年は家族揃って彼方此方に出かけることでしょう。今でこそ、新幹線や航空機が地方輸送の主役になっていますけど、新幹線網も航空機網も整備されていなかった昭和国鉄の時代はやはり在来線の特急や急行がその主役。アラフィフ、ギリギリアラフォーの世代はそれが楽しみでワクワクした方もいるのではないでしょうか。

 

昭和国鉄の特急は平成令和の体たらく特急と違って、まだ “特急らしかった” 威厳とかステイタスとかが辛うじて残っていたわけですが、その反面、新幹線移動に慣れちゃった現代と比較すると、やっぱり過酷な移動だったのは否めません。7時間も8時間もよくみんな堪えられたなって。

 

さて画像ですが、そんな夏休み真っ盛りの上野駅。昭和53年8月の撮影だそうですが、人で溢れかえっていますね。

今の上野駅は単なる通過駅になってしまいましたが、この頃は “北の玄関口” の名に相応しい、都内、いや国内屈指の大ターミナルでした。以前、そんな上野駅の凄さをタイムテーブル形式でお伝えしたことがありましたが、盆暮れになると定期列車の他に多数の臨時列車も仕立てて、押し寄せる乗客に対応していました。まぁ、臨時便になるとどんな車両が宛がわれるか皆目見当が付かないので、充当車両が判る定期列車の切符を確保出来れば先ずは第一関門突破ということになります。

 

上野駅の高架ホームは主に上信越方面の優等列車が出入りしていましたが、その主役はやはり新潟行きの「とき」と長野行きの「あさま」でしょうかね。

189系に混じって「白山」の間合いで「あさま」の運用に入っていた金沢運転所の489系ですが、189系が登場する前から489系は「あさま」の運用に入っていました。碓氷峠の関連で「あさま」のメインだった181系の編成が8両に限定されていたので、12両編成の489系はその威力を存分に発揮していました。でも、当時の時刻表の編成表をを見ると、489系を充当する「あさま」も10両編成になっています。メインの189系は53.10改正まで10両編成で運転していたので、それに合わせる形にしたのか、2両欠車扱いにしていたのかな?

ただ、「白山」も10両編成なので、その頃の489系は10両編成だったんですね。正規は12両編成なのに何で2両削っているのか? 

189系も489系もEF63との協調運転を可能にしているため、12両編成で運転出来るんですが、信越本線の地上設備(変電所容量の問題等々)の関係で53.10までは10両編成での運転でした。また、489系は53.10改正までは食堂車込みの編成でしたが、参考にした時刻表では既に食堂車がグリーン車に変更になっています。改正前に編成の組み替えが実施されたみたいですが、元より「あさま」では食堂車の営業はしておらず、だったら座席車にして輸送力を拡大させようとする意図が見え隠れします。

 

「あさま」と「とき」が並ぶ光景は特に珍しいものではなく、日常的な光景なんですが、時刻表を手がかりに該当する列車を探します。

画像左上の時計は15時15分を指していますので、そっから手繰り寄せることが出来ますが、調べてみると6番線から発車する「あさま」はそんなに多くなく、画像の時計の時刻と時刻表と照らし合わせたら一つだけ該当がありました。15時34分に発車する下り5号(5029M)が6番線から発車することが判りました。そして「とき」ですが、最初は15時38分に発車する下り10号だと思いました。しかし、下り10号の入線時間が15時20分なので、時刻と噛み合いません。上り列車で調べたら、14時49分に到着する上り5号(2010M)の可能性が高いことが判りました。もしかしたら、上り5号で上野に到着した後、一旦、御徒町の電留線に引き上げて15時20分に再入線し、下り10号として新潟へ行くという考え方もありかもしれませんけどね。

 

 

 

 

【画像提供】

ヤ様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表 1978年8月号 (日本交通公社 刊)

鉄道ピクトリアルNo.1006 (電気車研究会社 刊)

ウィキペディア(あさま)