何時ぞや、「武蔵野線開業50年」ということで取り上げたことがありましたが、首都圏の通勤路線でもう一つ、「開通50年」というか、「全通50年」という路線があります。それが根岸線です。

根岸線は横浜-磯子-大船間22.1kmを結ぶ路線ですが、実質的に京浜東北線と一体化されており、横浜-大船間の区間運転列車はありません(早朝と深夜に大船-磯子間の列車があるのみ)。

 

幼少の頃から京浜東北線の存在は知っていましたが、そういえばその頃、京浜東北線って何処から何処までを走るのかは判りませんでした。「大宮から大船まで行くんだよ」というのは気がついたら脳みそにインプットされていたという感じです。

あと、根岸線は「横浜-大船間」という説と、「桜木町-大船間」という説があったのも記憶しています。後者は横浜-桜木町間を東海道本線として扱っているというのがその根拠らしく、現実に後述する根岸線開通までの横浜-桜木町間は東海道本線の扱いでしたからね。何処かで「横浜-桜木町間は今もなお、東海道本線だ」という主張を論じている人もいるようです。

 

根岸線は昭和39年5月に桜木町-磯子間7.5kmが開通しましたが、前述のように、横浜-桜木町間は既に明治5年に開通していましたので、事実上、この区間は東海道本線とともに日本最古の老舗路線ということも出来るかもしれませんね。これを機に、横浜-桜木町間は東海道本線から離れて根岸線として扱うことになったことから、正式な区間は前者(横浜-磯子-大船間)で間違いないようです。

 

横浜市の磯子区、港南区、栄区というのは根岸線が開通するまでは山また山の何も無いエリアだったそうで、根岸線もどちらかというと、開通時は港湾地域への貨物輸送がメインだったようです。だからここから通勤する人は京浜急行の駅まで出るか、東海道本線の保土ケ谷か戸塚まで出る必要があったみたいで、根岸線の開通は沿線住民にとっては悲願の路線でもあったようです。

当初から大船まで計画されていたみたいで、計画当初の仮名は「桜大(おうだい)線」と言ってました。

磯子以西の路線も順調に工事が進み、昭和45年3月には磯子-洋光台間4.6kmが、そして昭和48年4月9日に洋光台-大船間8.0kmが開通し、ここに根岸線は全通します。

 

さっき、「横浜-桜木町間は東海道本線の扱いか否か」という話をしましたけど、もう一つ、根岸線と切っても切れない関係の路線があります。それが横浜線です。ある論者は「根岸線は実質的に横浜線の延長部だ」という論を展開してたりしますしね。

これも先程お伝えしましたが、根岸線は貨物輸送も盛んで、今も根岸駅で貨物専用の神奈川臨海鉄道が分岐して本牧ふ頭や中区豊浦にある石油精製所などへ貨物を運んでいますが、もっと遡ると明治37年に横浜線の前身である横浜鉄道が開通すると、八王子界隈で生産される絹を横浜港へ運ぶために列車による貨物輸送も行われたと推察されます。八王子から横浜までは「日本のシルクロード」って言われていましたしね。

そのような背景から横浜鉄道は横浜港へ延ばしたかったのでしょう。でも、そこから先はご存じのように国鉄・JRの前身である官設鉄道がいたために路線の延伸や乗り入れ等は不可能に等しく、明治44年に神奈川区の瑞穂埠頭に近い位置に海神奈川という所まで貨物線を敷くのがやっとという状況でした。横浜鉄道が国有化されるのは大正6年のことで、ここで横浜線と名付けられ、昭和15年まで桜木町まで乗り入れも実施されていました。だから桜木町から先の延長構想を描いていたのは横浜線だったという説が浮上し、「根岸線は横浜線の延長部だ」論が生きてくるわけですが、今も横浜線の根岸線乗り入れは絶えることなく継続されています。以前は大船から鎌倉まで足を伸ばしていた列車もありましたが、基本的に横浜線の列車は磯子までのようです(朝夜だけ大船発着の列車あり)。

 

さて、若干セピア色がかっている画像ですが、京浜東北・根岸線といえばやっぱり103系がまず思い浮かびます。

ついこないだ、神戸・和田岬線の運用を最後に、JR線上から姿を消したスカイブルー1色塗りの電車。その嚆矢が京浜東北線というのは知られた史実ですが、私も高校時代、お世話になりました。

画像の編成は運用番号のアルファベットが “A” になっているので、当時の蒲田電車区(南カマ)配置車両であることが判ります。

クモハ103の前照灯がシールドビーム二灯式に改造されている点と、画像をよく見ると、編成後半が冷房車になっていますので、昭和50年代中盤の撮影であろうかと思われます。

山手線とともにATC化された京浜東北・根岸線。先頭車もATC関連の機器類が搭載された仕様に交換する必要があり、昭和49年から順次、置き換えられましたが、山手線にしても京浜東北・根岸線にしてもその数が膨大なため、一気に置き換えるのは不可能。幸か不幸かATCの工事は途上だったので、その工事の完成までに全編成をATC対応の先頭車にすれば良いということで、また、他路線への置き換えも視野に入れなければならなかったので、しばらくの間、103系の先頭車は全てATC対応車が優先的に製造されていました。細かな転配劇については割愛しますが、画像もその置き換えの過渡期の撮影で、前3両がクモハ入りの非冷房車、後7両がATCクハを含む新製冷房車となります。

クモハ103はその後の顛末が二通りで、他線区に転属するか、そのまま中間に封じ込められて京浜東北・根岸線で使われ続けるかのどちらかでした。中間に封じ込められてでも大都会の輸送を支えたいか、はたまた地方のローカル線に転じてでも列車の先頭で風を切って走りたいか、どっちが良いのかは “当事車” のみぞ知るわけですが、最終的には京浜東北・根岸線に投入されたクモハ103は全て他線区に転配されて、風を切って走ることにはなります。

 

根岸線の話なのに、気づいたら横浜線に話が流れ、さらには横浜の歴史まで話の視野が広がってしまいました。それだけ根岸線の歴史は横浜線の歴史でもあり、横浜そのものの歴史でもあったりするんだというのが判ろう(解ろう)かと思います。

 

 

【画像提供】

リ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.786 (電気車研究会社 刊)

街の達人1/10000・全神奈川 (昭文社 刊)

東京時刻表2023年版 (交通新聞社 刊)

ウィキペディア(根岸線)