鉄道開業100周年だった昭和47年の翌年、つまり、今から50年前の昭和48年もまた、鉄道界では様々な出来事がありました。今はバス専業になっている北海道の旭川電気軌道や新潟の越後交通、秋田の羽後交通など、地方の私鉄が次々に廃止になったのが昭和48年だった一方で、国と政府の策略によってわざわざ過疎地に鉄道を敷いて開業させた例もありました。三重の伊勢線(現、伊勢鉄道)や徳島の牟岐線辺りが昭和48年開業になります。また、国鉄の労組による嫌がらせが頻発したため、乗客がブチ切れて暴動を起こした事件も彼方此方で起きました。

 

車両面で見ると、ラストランに向けてのカウントダウンが始まっている381系がデビューしたのも、近代ブルートレインの代表的客車である24系がデビューしたのも昭和48年です。

そして新線開業といえば首都圏でもありまして、根岸線の延伸開業(洋光台-大船間)もこの年でしたが、もう一つ、首都圏の重要な通勤路線が昭和48年に開業しました。それが今回のテーマになります。

 

 

武蔵野線ですね。

武蔵野線は昭和48年4月1日に府中本町-新松戸間が開業したことでその歴史が始まりますが、武蔵野線建設の大きな目的は貨物輸送にありました。そしてその根底にあるのがいわゆる「東京五方面作戦(または通勤五方面作戦)」です。

 

元々、山手貨物線に代わる新たな貨物専用線の構想は戦前からあったんですが、第二子世界大戦でその構想は凍結していました。戦後になって貨物輸送の需要が伸び、山手貨物線だけではいずれ輸送量がパンクするだろうと、昭和32年に再度建設構想が浮かび上がりました。

 

時同じくして、年々、凄惨さが増していた首都圏の通勤事情。国鉄では4扉の通勤車両を「これでもかっ!」っていう位に増産しても追いつきません。山手線も中央・総武緩行線(以下、総武線)も常磐線快速も編成を延ばして対処するのですが、焼け石に水状態。この状況は何も4扉を使う線区だけでなく、東海道線や横須賀線、東北・高崎線、常磐線といった3扉車を使う近郊路線にも大きく影響を及ぼしていました。むしろそっちの方が酷かったかもしれません。この打開策として「東京五方面作戦」というのを打ち出すのですが、具体的には、

 

① 同じ線路を共用していた東海道線と横須賀線を分離する(SM分離)。

② 常磐線の複々線化と地下鉄乗り入れによる都市部への直通運転。

③ 総武本線の複々線化と快速線の新設及び快速線の横須賀線直通。

④ 東北本線の三複線化による客貨分離(京浜東北線列車の分離含む)。

⑤ 中央本線の複々線化と緩行線の地下鉄乗り入れ。

 

ここに掲げた輸送力増強案で、東海道本線と東北本線で共通している事案があります。輸送力増強という意味でどうしてもボトルネックになっていたのが前述の「貨物列車の扱い」でした。

列車のスピードアップにおいて、旅客列車よりも速度が劣る貨物列車は足かせになってしまい、客貨分離というのは必須事項でしたが、さすがに貨物列車を全廃にするわけにはいきませんので、都市部において貨物列車の乗り入れをさせない方策が打ち出されます。

武蔵野線開業前、東北・常磐方面から東海道方面への貨物列車は田端操車場から山手線(山手貨物線)を介して、大崎駅から貨物専用の「品鶴線」を通って新鶴見操車場に向かい、鶴見の手前で旅客線と合流するというルートが一般的でしたが、これを根本的に見直し、貨物列車を都市部から逃がすことからまず着手します。それが武蔵野線になるわけですが、当時、総武本線の貨物列車はこれに介入せず、東京湾岸地域にも貨物専用線を敷いてそっちを経由する方策を採りました。それが後の京葉線になるわけですが、そういう意味で総武線と武蔵野線の交わりは当初は考えていなかったことになります。

常磐線から武蔵野線へ、東北・高崎線から武蔵野線へ、武蔵野線から中央本線へ貨物列車を乗り入れさせるためにそれぞれ馬橋-北小金間に、与野-北浦和間に、国分寺-国立間に直通できる短絡線を建設しました。

 

次に府中本町から先、新鶴見操車場まで多摩の山々を掘削してトンネルを通しました。途中、一瞬地上に顔を出して川崎市宮前区に貨物駅(梶ヶ谷貨物ターミナル)が新設されました。

客貨分離で一番厄介だったのが東海道本線でした。

それまで東京側における貨物輸送の要衝は汐留貨物駅でしたが、この機能を一部移行した上で、大井埠頭に新たな貨物駅を設置します。これが東京貨物ターミナルになるわけですが、前述のように、京葉線構想も当初は東京貨物ターミナルに繋がることになっていました。京葉線も新木場以東千葉方面へのルートは成田空港まで新幹線を通す計画で用地買収や路盤の整備をしてたけど、貨物列車をどうやって通すつもりだったのか?

 

汐留から東海道新幹線の回送線に沿って新線を建設し(大汐線)、大井埠頭の東京貨物ターミナルに通じさせ、羽田空港の脇をトンネルで通して川崎の工業地帯にある塩浜操車場で地上に顔を出し、南武線の浜川崎支線を介して東海道本線の旅客線と合流させ、さらに鶴見駅の先でまたトンネルを掘って横浜市北部、神奈川区羽沢に横浜における貨物の要衝(横浜羽沢貨物駅)を設置し、またトンネルで戸塚付近で旅客線と合流するというルートを設定し、貨物列車を横浜駅から逃がす方策を採りました。戸塚から先は旅客線とは別に貨物専用の複線を敷いて、小田原までは複々線とすることで東海道線の旅客列車を増発させようとするのですが、沿線の住民から大反対を喰らいます。反対に遭ったからトンネルを主体にしたこのルートにしたのか、元々このルートを計画して反対に遭ったのかは定かではないのですが、昭和54年に開通するまで相当な年数を要しました。

 

貨物の抜本的な改革案がまとまりつつある中で、旅客線の複々線化も進捗していましたが、当初、武蔵野線は貨物専用線として計画されていました。しかし、バス以外に公共交通機関がなく、「陸の孤島」と言われていた千葉県の流山市、埼玉県の三郷市、越谷市、新座市、所沢市、東京の国分寺市などの一部地域で宅地化が進んでいたことから、予定を変更して旅客輸送も行うことになり、府中本町-新松戸間でその整備が行われました。

西国分寺-府中本町間には、「下河原線」と呼ばれる中央本線の支線があったんですが(下河原線の正式な区間は国分寺-東京競馬場前)、武蔵野線の旅客輸送に合わせて転用することになりました。

 

このような複雑多岐に渡る変遷を経て武蔵野線の旅客輸送は開始されたのですが、開業に合わせてもう一つ、問題点が浮上しました。旅客輸送に合わせて必要不可欠な車両の確保です。

ご存じのように武蔵野線は、西国分寺-東所沢間において長大トンネルが連続しており、開業前年に発生した北陸トンネル列車火災事故の影響で、運輸省は特にトンネル区間が連続する地下路線を対象に更なる厳しい規定を設けていました。武蔵野線も地下路線ではないにせよ、このトンネル区間も規定の対象とすることとなり、それに合わせた車両が必要になりました。しかし、当時の国鉄は、通勤路線で言えば山手線と京浜東北線、総武線緩行、常磐線快速、同線緩行、東海道本線、横須賀線、東北・高崎線、関西地区に向けた新車を製造するのに精一杯で、武蔵野線向けの新車を製造する余裕はありませんでした。ましてや長大トンネル区間に対応した特殊設備を施した車両となると、それだけコストがかかるし、国鉄は頭を抱えていました。最悪、中央線緩行や常磐線緩行に投入していた103系1000番代、1200番代を追加増備して武蔵野線に充てる構想もあったにはあったようですが(予算計上もしたとかしなかったとか)、最終的に中央線快速で活躍していた101系を改造の上、武蔵野線に投入することで落ち着きました。それを捻出するために、中央線快速に冷房付きの103系を投入したのは有名な話だったりします。

 

種車は主に初期ロットの車両が選ばれ、当時の運輸省の規定(A-A基準)よりか少し緩和したA基準で改造に着手。内装や機器類の難燃化・不燃化工事が主な改造箇所になります。

具体的には、主電動機、主抵抗器、主制御器など機器類の回路配線を一旦、密閉したダクトに通して、それぞれの機器に配線するように変更したほか、床材のユニテックス化、引き戸戸袋の水抜け穴へカバーを設置、床下のクリート部分を不燃化、遮断機のアーク流しの取り付け部分をベークライト化するなど、改造箇所は多岐に渡ります。

この関係で番号を変更することになり、1000番代と区別されました。試作車の900番代を除けば、101系初の番代区分となります。

開業当初は66両が用意されましたが、昭和53年10月の新松戸-西船橋間の延長開業でさらに24両が追加改造され、合計90両が1000番代となりました。

しかし、101系といえど改造種車が初期ロットということで、昭和50年代に入ると老朽化が問題視され、昭和55年には冷房付きの103系がそのまま新製配置されると(この時は武蔵野線列車の増発用)、昭和59年辺りから103系の本格投入を実施します。201系、203系、205系の投入で余剰となった103系の一部を当時の武蔵野線車両の塒であった豊田電車区(西トタ)に転配させ、武蔵野線に投入するというフローが組まれました。品川・池袋、蒲田・下十条・浦和、津田沼、松戸から応援に駆り出した車両も含まれていて、2~4色の混色編成が多数走りました。以前、武蔵野線の継ぎ接ぎ電車は弊愚ブログで取り上げたことがありましたよね。

最終的に101系1000番代は昭和61年まで活躍し、103系に置き換わることになります。検査期限の残っていた101系1000番代は一瞬だけ、103系の105系化工事に伴う予備車という扱いで仙台の陸前原ノ町電車区(仙リハ)に貸し出されていたことがありました。

 

武蔵野線は京葉線と抱き合わせで「東京外環状線」を形成していますが、利用者の一部は「府中本町から先の旅客化」「りんかい線との直通運転」「そのりんかい線の車両基地への入出区線を活用した旅客化及び羽田空港へのアクセス」を願っているのではないでしょうか。

 

 

【画像提供】

は様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.720

同別冊「国鉄形車両の記録 101系通勤型電車」

(いずれも電気車研究会社 刊)

ウィキペディア(通勤五方面作戦、武蔵野線、京葉線など)

 

 

(「THE JNR LEGEND」アーカイブス)

武蔵野線の「継ぎ接ぎ電車」についてはこちらを。