JRになって、電車化や気動車化によって余剰となる比較的経年の浅い50客車を気動車に改造するという荒手の手法が採られたことがありました。JR北海道のキハ141系やJR西日本のキハ33系がその代表格で、厳密に言えば気動車への改造ではないけど、キハ58系の増結用として12系客車を改造したキサハ34形が富山の氷見線で活躍していたことがありました。これら、客車を改造した気動車を「PDC」と呼ぶことが多いですが、PDCはJR化後の発明ではなくて、国鉄時代に既に存在していました。もっともその時はJR化後の事情とは大きく異なったりしますけど。

 

車両の近代化が一気に推し進められた昭和30年代、内燃動車もディーゼルエンジン搭載車が主流となり、特にDMH17型エンジンと液体変速機の開発によって爆発的に増加し、集大成として特急用が登場するまでに成長しました。しかし、それらの投入先は基本的には都市部の非電化線区のみで、地方の亜幹線やローカル線ではまだまだ蒸気機関車牽引による客車列車が輸送の主役でした。さらに非電化線区よりも電化された幹線に設備投資を優先し、特に昭和30年代中盤になると計画が具体化した東海道新幹線の建設費用を捻出するために、地方線区の近代化は後手後手に回っていました。そのため、車両の新製予算を削ったり、酷いと予算すら計上されないこともあり、それが顕著になっていたのが北海道でした。

北海道も近代化は喫緊の課題でしたが、前述のように設備投資に関しては札幌周辺と函館周辺に限られまして、この線区では急行用のキハ56系や特急用のキハ82系、そしてローカル輸送用のキハ20系(キハ22)が投入されたりしましたが、札幌や函館を一歩外れると、近代化なんて夢のまた夢という現実がありました。客車は老朽化が深刻化を増し、加えて気候上の問題も絡んで五体満足に使える車両は数えるほど。そこで、その客車を気動車に改造するという、模型みたいな提案が国鉄北海道支社から具申され、「急場凌ぎではあるけど、やってみるっぺ」と国鉄本社も了承して登場したのが “元祖PDC” でした。

 

 

外見はまんま客車ですが、これにディーゼルエンジンと液体変速機を搭載しています。

因みに、当時のレートでキハ22を新製すると1,600万円余りかかりましたが、PDCだと約1,200万円で済みます。種車や運転台の数、運転台の有無等々でこの価格は上下しますが、いずれにしてもコスパ的には申し分ないかなとは思います。ただ、いくらコスパは良くても、未来永劫使えるのかどうかは未知数で、そこが新製気動車との大きな差になりますし、例えばSL牽引をDL牽引に置き換えた場合と新製気動車を投入した場合、そしてPDCを投入した場合の経費も比較しました。ましてやPDCの投入地区が北海道ということもあって、その辺も頭に入れとく必要があります。その結果、PDCは新製気動車を投入するまでのワンポイントリリーフ的に扱い、都市部の近代化が一段落して地方線区や閑散線区への設備投資が計上されるまでの間、このPDCで持ち堪えようということになりました。甚だ雑駁ではありますが。

 

このような経緯を経て、昭和35年に国鉄苗穂工場で2両のPDCが完成しましたが、この車両にキハ40とキハ45の形式を与えました。説明するまでも無く、現在のキハ40やキハ45とは全く異なります。キハ40が両運転台、キハ45が片運転台になりますが、いずれも種車はオハ61系(北海道用のオハ62)になります。

パワーユニットはキハ17やキハ20ですっかり浸透していたDMH17(DMH17H)型で、DA1A型トルコンを搭載しています。動力台車は片方のみ履いており、気動車標準のDT22Aを新調して履かせています。もう片方は客車時代のTR23を

まんま履きました。トルコンを採用していることから、重連総括運転は勿論のこと、他形式との混結も可能です。

室内はコスト削減の兼ね合いから、特に手を加えておりません。

 

バリエーションについては、前述の2形式の他に動力を持たない付随車両も製作(改造)されまして、運転台付きのキクハ45と完全付随車のキサハ45がそれぞれ登場しています。

昭和41年に形式称号規定の改正が行われ、改番が行われました。

 

キハ40→キハ08

キハ45→キハ09

 

なお、キハ09は電気式のキハ44000形の改番形式として与えられたことがあり、正式には二代目になります。

また、現在のキハ40とキハ45も厳密に言えば “二代目” になります。

なお、現在のキハ40に1番が無いのと、キハ40の北海道バージョンが100番代になっているのは、初代のキハ40に1番が存在したがための配慮とされています。キハ45 1は重複番号ですね。

 

さて、画像ですが、片運転台のキハ45 1で、キハ09 1に改番されてからの姿です。

昭和35年末に登場し、種車はオハ62 5。戦前のナハ23283を昭和29年に綱体化改造したものです。

乗務員窓に違和感がありますが、種車時代が下降窓だったので、それを引き違い式に改造しています。

気動車に生まれ変わってからずっと苗穂機関区(札ナホ)に配置されて、札幌近郊(多分、函館本線と千歳線、さらには札沼線)と歌志内線で運用されていました。

架線と架線柱が見えることから昭和40年代以降の函館本線であることが判りますが、小樽駅っぽい印象を受けます。廃車は昭和46年5月ですが、ちょうどこの頃の函館本線は「C62ニセコ」ブームが頂点に達している時期とリンクします。

 

キハ40系グループはその大半が北海道にいましたが、3両だけ四国と九州に配置されていました。いずれもキクハ45ですが、この改造種車だけ、暖地向けのオハ61になります。

キクハとキサハはわずか3~4年で廃車の憂き目に遭いますが、キハはキハ09 1共々、昭和46年までに全廃されました。その中の1両、キハ08 3(旧キハ40 3)は廃車後、 “京都” の加悦鉄道に譲渡されて、昭和60年まで活躍。さらに加悦鉄道で廃車になっても解体されることなく、加悦駅構内にあった「加悦SL広場」に保存されました。

昨今、その「加悦SL広場」の存続問題が話題になり、実際に令和2年に閉園しましたが、閉園後の処遇について詳細な記事が見当たりません。解体された可能性もある中、どうも、大江山駅跡に移されて残存しているらしいという未確認ではありますが情報もあります。

試作的要素が強い “元祖PDC” は魔改造ではあるけど、鉄道車両発展の過程にあった貴重な文化遺産です。末永く遺すべきですね。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

RM Re-Library⑩ 「国鉄の個性派気動車」 (ネコ・パブリッシング社 刊)