JR東日本高崎車両センターに配置されていたジョイフルトレイン「華」が令和5年11月11日付で、同じく「リゾートやまどり」が12月27日付でそれぞれ廃車になりましたが、これが何を意味するかと言いますと、双方、485系の改造で登場したジョイフルトレインになります。そしてこの2本が最後まで残っていた485系の ”残党“ でした(いつの間にか「きらきらうえつ」は廃車になっていたんですね)。つまり、この2本が廃車になったことで、485系は形式消滅となり、交直両用特急用車両の嚆矢である481系から数えて約60年に渡る活躍が終わりました。

ここにまた、国鉄形車両が消え、一時代を築いた名車両が過去帳入りしてしまったことになります。

 

 

というわけで、今回は485系にスポットを当てたいと思いますが、画像はその交直両用特急車両の始祖である481系のデビュー直後の姿。オリジナル中のオリジナルになります。

 

電車特急の始まりは昭和33年のモハ20系(→151系)「こだま」からですが、後に「つばめ」「はと」「富士」といった列車にも充当され、長距離輸送の担い手は客車から電車に主導権が移りました。時同じくして、営業用の交流電化が鹿児島本線と北陸本線で本格的に始まり、地方の幹線を中心に交流電化が推進されていきますが、直流区間では151系による電車特急は人気の一途を辿り、東海道本線以外でも上越線向けに一部改良を施した161系が登場し、特急「とき」として活躍することになります。そうなると、必然的に「交流区間にも特急電車を・・」という期待が俄かに高まり、その頃はまだ飛ぶ鳥を落とす勢いだった国鉄もその期待に応えるかのように、新たな特急用車両の開発を模索します。それに先駆けてまずは急行・準急用として、昭和37年に451系と471系を製造し、それぞれ東北本線と北陸本線に投入します。交流区間の場合だとどうしても周波数に応じて2種類の車両を製造する必要がありますが、451系は50Hz用、471系は60Hz用になります。翌年からはモーターのパワーをアップした453系と473系を製造したことにより、一つの足掛かりが出来たということで、いよいよ特急用車両の開発が本格化します。端的すぎるくらい端的な言い方ですけど、新型の交直両用特急電車は451/471系の足回りに151系のボディを被せた格好となるわけですが、東海道新幹線が開業する昭和39年10月までには完成させて、新幹線に接続する山陽・北陸方面への列車に使いたいと国鉄は思っていました。ところが10月までに完成が間に合わず、2か月強遅れて昭和39年12月25日から大阪-富山間の「雷鳥」と名古屋-富山間の「しらさぎ」に投入。ここから交直両用特急電車の歴史が始まりました。

 

画像はおそらく名古屋駅だと思いますが、「しらさぎ」が発車していくシーンになります。

前述のように、481系の完全なるオリジナルスタイルで、初期中の初期はクハ481のスカートが真っ赤に塗られているのが大きな特徴。これは当時、481系は向日町運転所(大ムコ)に配備されていた関係で、山陽特急用として田町電車区(東チタ)から転じた151系と識別する意味合いからスカートを赤く塗りました。この “赤一色スカート” は、クハ481-1~8だけに見られたもので、増備分(昭和39年度第4次債務発注)からは前照灯上に ”ひげ“ を入れた他、スカートにクリーム色のラインを入れました。後に第一陣のクハ481-1~8も増備分と同じ仕様に塗り替えられ、この “赤一色スカート” はほんの僅かな期間しか見られなかったことになります。因みに私は今もなお、前照灯上のワンポイントを “ひげ” と思っておらず、「どちらかといえば ”まゆ毛“ だろう」と思っているクチです。

なお、昭和39年度第4次債務発注では、東北特急向けに50Hz用の483系も併せて製造されていますが、 “483系仕様” のクハ481は ”481系仕様“ のクハと異なり、スカートの色はクリーム一色。これで「この車は50Hz専用」というのを意味するようにしました。私は後者の方を支持します。

 

画像をよく見ると、前照灯がちょっと “異色” になっていますが、これも初期のクハ481に見られた後方視認用の赤色フィルターです。

151系にもこの赤色フィルターは設定されており、実際に点灯したのかどうかは知らんけど、不測の事態で緊急停車した場合は後続の列車にそれを報せる意味合いで交互に点滅する回路を備えていました。

クハが先頭に立つ時は運転室脇にあるスペースに格納させるのですが、最後尾になる場合はこれを引っ張り出してヘッドライトカバーに装着します。

この赤色フィルターはATSが普及した昭和41年10月に廃止されています。

 

制御車、付随車はその後も ”481系“ を名乗り続けますが、モハ480/モハ481の電動車ユニットは昭和39年度製造の26ユニット(52両)だけで製造を終えてしまい、本格的な増備は昭和43年の485系まで待たなければなりませんでした。

増備分を生かして「雷鳥」「しらさぎ」の他に「つばめ」「はと」にも投入されて151系を置き換え、交流区間に直流電車を強引に乗り入れさせる荒業的な仕業は終焉を告げました。

481系は晩年、九州の鹿児島運転所(鹿カコ)に集められて、昭和60年までに全車が廃車となっています。当然、JRへの承継は無いばかりか、他系列への改造等はなく、全て解体処分になりました。

 

481系に始まった交直両用特急電車は50Hz用の483系、50Hz/60Hz共用の485系、碓氷峠に対応する489系へと発展していき、さらに耐寒耐雪強化仕様(1000番代)、北海道仕様(1500番代)といったバリエーションも多く存在し、まさに日本を代表する特急電車として四国を除く全国の電化された幹線で八面六臂の大活躍、SL無き後、昭和50年代に巻き起こる「エル特急ブーム」も485系が牽引しました。あと、スタイルは全く違うけど、寝台電車の581/583系も足回りは485系そのものなので、ある意味、 ”485系ホールディングス“ の一員なのかなと思ったりします。

 

特急が特急で無くなりつつある昨今のJR特急ですが、485系全盛期の頃はまだ辛うじて「特急が特急らしかった」時代でもありました。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.765、846、897

(いずれも電気車研究会社 刊)

キャンブックス「485系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

ウィキペディア(国鉄485系電車)