関西の鉄道、特にJR西日本のネタになると、ついつい「 ”Aシート“ は繁盛してまっか?」と言ってしまいます。

JR西日本が社運を賭けたかどうかは知らんけど、やっぱり気になるもの。ドケチで「余分に金を払ろうてまで座らんでもええ」と意固地一辺倒な関西の人もついに「余分に金を払ろうてでも座って通勤したいねん」という性分にかられたかと期待に胸を膨らませ、「増備も夢じゃない」と東京生まれの東京育ちの私は小躍りしましたが、高評という話はとんと耳にしません。やはり「余分に金を払ろうてまで座らんでもええ」なのかなぁ~? その辺の金銭感覚が首都圏とは違うんですね。

 

 

さて、Aシートの話になると連鎖的に引っ張り出されるのが往年の京阪神快速のグリーン車。前述の関西人特有の金銭感覚に翻弄されて、晩年は「空気がお客様」とさえ言われた京阪神快速のグリーン車。でもね、新快速にも連結されなかったグリーン車ですから、その辺りは自慢してもよさそうなんですが、画像を見る限りでは結構、側窓が開いていたりするので(撮影月が8月なので)、そこそこ乗車率はあったのかもしれませんね。

 

さて、裏面にデータが記されていましたが、撮影年は昭和47年で今から半世紀前の画像になります。列車番号は780Мで、サボには「姫路⇔草津」が掲げられています。近似値である昭和48年4月現在の時刻表を見ると、780Mは網干発なんですね。

網干を12時07分に発車した780Mは草津に15時ちょうどに到着します。網干-明石間と京都-草津間が各駅停車になり、明石-京都間で快速運転を行います。途中の停車駅は垂水、須磨、兵庫-三ノ宮、六甲道、芦屋、大阪、新大阪、茨木、高槻です。今のJR京都線と神戸線の快速はこれに舞子、住吉、西ノ宮、尼崎が加わり、さらに高槻から先は各駅停車になります。もっとも、西ノ宮はこの頃から一部列車は停車していましたが、快速も尼崎は通過していました。尼崎は兵庫県東部の中枢都市と思い込んでいたんですが、国鉄時代はそれほど重要な駅ではなかったようです。

 

画像をよく見ると、「サロ110-51」と読めます。

ご存じのように、サロ110の0番代はサロ153を改造したもの。種車の番号をそのまま生かしているので、サロ153-51が種車になります。サロ110への改造は昭和42年ですが、新製配置は田町電車区(東チタ)で、生粋の関西車ではなかったようです。サロ110に改造後は高槻電車区(大タツ)に配置されますが、昭和53年に首都圏に呼び戻され、大船電車区(南フナ)に転属、その後、国府津運転所(南コツ)に異動して平成3年まで活躍しました。つまり、JRを経験したことになります。

関西の113系グリーン車は大多数がグリーン車連結廃止とともに廃車になったと思っていたのですが、意外に首都圏転属組が多かったりしました。サロ113は全車、サロ110 0も何気に多かったですね。京阪神快速のグリーン車が廃止されたのは昭和55年8月ですが、それから2か月後の10月にダイヤ改正が実施され、東海道線と横須賀線の分離運転が実現し、横須賀線は総武線快速と直通運転を開始するのですが、それでグリーン車が大量に必要になったので、関西のサロ110も再就職の場を見つけたことになります。ただ、車齢が浅くない車両については、転属後すぐに廃車の憂き目に遭ったりしましたが、前述のようにJRに引き継がれたのもあり、JR後の活躍は短かったものの、そんな中、サロ110-51はそれでも比較的遅くまで生き延びました。画像は非冷房仕様ですが、高槻配置時代の昭和52年に冷房改造を実施しています。

 

JR西日本のAシートは国鉄グリーン車のDNAを受け継いでいるわけではありませんが、関西に行くことがあったら是非、体感してみて下さい。

 

 

【画像提供】

ケ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.803、944

(いずれも電気車研究会社 刊)

時刻表1973年4月号 (日本国有鉄道 刊)

日本鉄道旅行歴史地図帳第9号「大阪」 (新潮社 刊)