切りの良い番号だったせいかどうかは定かではありませんが、晩年、人気機となったEF65 100号機。

EF65といえば、泣く子も黙る国鉄直流電機の標準機として308両が製造されましたが、基本的には貨物列車しか牽かない0番代(一般型)は趣味的にも目立たぬ存在でした。やっぱりブルートレインを牽く500番代のP型や1000番代の後期型に人気が集中していたのは言うまでもありませんが、国鉄末期になってブルートレインを凌ぐ人気者になったのが団体用客車「ジョイフルトレイン」で、その牽引機に一般型が抜擢されてスポットライトを浴びるようになりました。でも、それは極々限られたものであって、「ユーロライナー」牽引機の105、106、112号機、「ゆうゆうサロン岡山」牽引機の123号機がその中心でした。加えて貨物列車の削減で、多くの機関車が余剰状態になって、機関区や工場、さらには荒れ果てた昔の操車場跡地なんかで解体待ちの隊列を組んだ光景を私も見たことがありました。

 

そんなEF65 0番代に再びオファーをかけたのはJR貨物でした。

コンテナ主体の列車ではありますが、貨物需要が少しずつ増え始め、国鉄からJRに引き継いだ機関車だけでは不足がちになり、国鉄清算事業団預かりになっていた廃車待ちの機関車を数両復活させたのです。500番代のF型に混じって0番代も車籍復活して、その際に更新工事も行われまして、識別の意味合いも兼ねてJR貨物のオリジナルカラーに塗られました。中には更新工事を実施しながらもオリジナル塗色を堅持した車両や、イメージアップやプレゼンも兼ねて茶色に塗り替えた車両もありましたが、その頃のスターは56、57号機や100号機でした。

 

100号機は昭和43年度第四次債務で製造された20両のうちの1両で、1969年6月に落成、私と同い年になります。

この100号機、新製から廃車まで岡山機関区を離れなかった「岡山の秘蔵っ子」で、晩年、パンタグラフを下枠交差型のPS22に挿げ替えて、それも人気に拍車をかけた要因ではないかと思われます。

因みに、撮影地は何処だか判りますか?

 

正解は松山駅です。

 

「四国にEF65」・・およそピンと来ないんですが、EF65と四国の関わり合いは瀬戸大橋開通時から既に始まっていました。

土讃線が非電化(琴平まで)のままなので、運用は自ずと予讃線になりますが、その管轄は岡山機関区でした。また、0番代の他に1000番代も乗り入れており、新鶴見機関区から7両のPF型が岡山に転配されています。

 

最近、急激に国鉄型電機の淘汰が加速しており、EF65も残存しているのはPF型のみと記憶しています(501号機は別)。四国乗り入れもEF210に託しているみたいですしね。

 

 

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.967 (電気車研究会社 刊)