ここは上野駅。

21世紀の昨今、上野駅は通勤列車ばかりが目立ち、この画像からは想像もつきませんが、新幹線が開通する前は北へ向かう長距離列車が 「ちょっとした銀座線」 並みのダイヤで走りまくっていました。勿論、昼だけでなく夜もその勢いは止まらず、昭和国鉄時代の上野駅はまさに “不夜城” と化していました。今も地平ホームは残されていますが、行き来する列車は指折り数えられる程度まで減り、13番線と14番線だけ、何となく昔日の面影が辛うじて残されているかなという感じ。画像は、上野駅がまだ賑やかだった頃の一コマになります。

 

編成の端に郵便車両や荷物車両を連結しているのは、昼行問わず昭和国鉄における客車列車のスタンダードになりますが、これがブルートレインになると、 「珍百景」 になります。この荷物車両はワキ8000系の緩急車、ワサフ8000形なんですが、そのワサフ8000の次位には20系客車が。国鉄末期の20系転用急行には結構見られましたけど、画像は至極普通の特急列車。上野-盛岡間を結んだ 「北星」 号です。

どちらかというと、急行列車としてのイメージが強かった 「北星」 ですが、昭和50年3月のダイヤ改正で金沢行きの 「北陸」 とともに20系客車に置き換わって特急に格上げされました。運転区間は急行時代と変わらず、使用車両が少しだけグレードアップしましたけど、既に14系や24系といった次世代寝台客車が活躍を始めていていましたので、広い目で見れば “格落ち” 感は否めず、 「事実上の料金値上げだっぺっ!」 というクレームも一度や二度ではなかったそうです。

 

そんな 「北星」 ですが、急行時代から続いていた新聞輸送は特急化されても継続されました。切符販売のオンライン化は実現していましたが、それでも各種システムのIT化など夢のまた夢の話。新聞も東京の本社で記事を書き、東京の工場で製作されてそこから近隣ならトラック、遠距離なら鉄道でという輸送システムが一般的でした。20系客車にはカニ21やカニ22といった荷物室を備えた電源車がラインナップされていましたけど、新聞を載せるだけのスペースは無かったんでしょうね。そこで白羽の矢を立てたのがパレット荷物車のワキ8000系でした。

 

ワキ8000系といって思い出すのが同じ荷物用客車のスニ40系。ワキ8000はスニ40を貨車としても使えるようにした車両と言えます。従って、両車ともクリソツな外面をしています。また、高速貨車のワキ10000にもよく似ており、実際にワキ10000から改造された車もあります。

ワサフ8000はそのワキ8000の緩急車で、20系併結仕様車は通常車両とはブレーキ装置が異なるため、8800番代と区別されています。また、識別のために車体全体を20系と同じ青色 (青15号) に塗られていました。因みにワサフ8800は通常のワサフ8000からの改造では無くて新製だったと聞いたことがあります (後から知りましたが、8800~8802の3両が新製されたそうです) 。

 

ワサフ8800は、下りが長町まで、上りが仙台からそれぞれ連結していましたが、何故仙台ではなくて長町までなのかと言いますと、当時、東北新幹線工事の関係で、特に深夜帯に仙台を通る列車は宮城野貨物線経由になるため、仙台駅はスルーするから。乗客の便宜を図るため、一部列車は長町に停車していましたが、 「北星」 は客扱いをしない運転停車なので、その時間を使ってワサフ8800は長町で切り離され、切り離されたその場所か別の場所かは判りませんが、新聞を下ろす作業をしていたと思われます。

空になったワサフ8800は上り列車に連結されて上野に戻りますが、上り 「北星」 は仙台経由なので (やはり運転停車) 、ワサフ8800も仙台で連結されます。でも新聞輸送は不要なのでワサフ8800は回送扱いとなります。

下りはワサフ8800の、上りは機関車とワサフの次位に連結されているため、カニ21における 「北星」 のバックサインはしばらくは見ることが出来ませんでした。

 

昭和51年、東北自動車道の延伸で、新聞輸送はトラックに切り替えられたのを機に、ワサフ8800の連結は中止されました。これで晴れてカニ21も拝めるようになりました。

昭和53年10月のダイヤ改正で、 「あかつき」 が新型の14系15形に置き換えられ、余剰となった14系客車は 「ゆうづる」 の一部と 「北星」 「北陸」 に充当されることになり、この段階で20系使用の寝台特急は 「あけぼの」 のみとなりました。

任務が解かれた後のワサフ8800がどうなったのか? 通常のワサフ8000に編入されたのかどうかとか、廃車はいつなのかというのまでは判りませんでした。

 

ところでこの 「北星」 、昔の幼児向け鉄道本には、 「 「やまびこ」 の夜行版」 って表現をされていましたけど (因みに、 「日本海」 も 「 「白鳥」 の夜行版」 って言われ方をされてました) 、当時の東北方面寝台特急といえば、 「ゆうづる」 と 「はくつる」 のツートップが揺るぎない地位を堅持しており、しかもその大多数が青森を経て北海道へ行くのが任務。そういう意味で言えば、盛岡は中途半端で、しかも “要・急” 以外は昼行の 「やまびこ」 や 「はつかり」 を選ぶのが自然の理。さらにその頃は急行 「いわて」 も残存していたし、わざわざ 「北星」 を選ぶ必要は無かったんですね。

急行 「いわて」 には夜行便もありましたが、夜行 「いわて」 と 「北星」 との差は約1時間。寝台の有無はあるにせよ、1時間ほどの差であれば、コスパに優れる急行を選びます。つまりは 「北星」 のアイデンティティは無かったということ。それに追い打ちをかけたのが昭和57年の東北新幹線開通でした。 「北星」 に限らず、首都圏と東北を結ぶ在来線優等列車は大打撃を受けましたが、その時は大宮暫定開業だったので、辛うじて生き残りましたが、メインはその5ヶ月後の上越新幹線開業によるダイヤ改正でした。ここで一部を除いて東北方面の在来線優等列車は悉く廃止され、例外なく 「北星」 も絡んでいました。

 

正式な連結中止日がいつなのかというのは最後まで分かりませんでしたが、貴重な画像であるのは変わりなく、約1年だけ見られた国鉄のブルートレインの歴史上でも屈指の 「珍場面」 と言えるでしょう。

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

鉄道ファン No.402 (交友社 刊)

鉄ぶらブックス① 「伝説のブルートレイン全列車」 (交通新聞社 刊)

国鉄監修・交通公社の時刻表 1978年8月号 (日本交通公社 刊)

ウィキペディア (国鉄スニ40形客車、東北自動車道など)