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昭和56年10月、急行 「伊豆」 が特急に格上げされて 「踊り子」 となりました。
一部の普通運用は残されていたものの、事実上、田町電車区 (南チタ~後のJR東日本田町車両センター) の153系は消滅し、この段階で首都圏で153系が見られるのは幕張電車区 (千マリ~現在のJR東日本幕張車両センター) 所管の房総急行と大垣電車区 (名カキ~現在のJR東海大垣車両区) の急行 「東海 (+大垣夜行) 」 運用のみでした。まだ見られはしたものの、どれも首の皮一枚繋がっているような感じで、幕張の主力は165系でした。

房総地区に電車急行が登場したのは、昭和44年の房総西線 (→内房線) 電化時。新製の165系を投入して急行 「うち房」 に充当したのが最初です。房総半島の一大プロジェクトとも言えた房総東線 (→外房線) の電化と総武本線の東京乗り入れが実現した昭和47年7月には、外房線の急行も電車化されて房総半島を循環する 「なぎさ」 「みさき」 に改名しました。新宿あるいは両国を出発して千葉→木更津→館山→安房鴨川→勝浦→茂原→千葉へと向かい、新宿あるいは両国へ行くのが 「なぎさ」 で、逆に新宿あるいは両国を出発して千葉から茂原→勝浦→安房鴨川→館山→木更津→千葉へと向かい、新宿あるいは両国へ向かうのが 「みさき」 でした。

昭和50年3月、総武本線、成田線、鹿島線という 「北総3線」 の電化が完成し、それまで気動車で運行していた急行が電車化されることになりました。この時、165系の増備 (他区所からの転配) もあったんでしょうけど、それに混じって山陽急行の廃止によって余剰となった下関運転所 (広セキ~現在のJR西日本下関総合車両所運用検修センター) の153系が転配されることになりました。これが千葉地区における153系の始まりです。ただ、千葉の153系といえば、非電化時代の昭和38年に夏季輸送の臨時列車 「汐風」 として153系が充てられたことがありましたが、本格的な投入はこの時が初めてです。
下関から幕張に転属になった153系は32両。グリーン車付きの7両編成でしたが、グリーン車は他区所から転配になった (と思われる) サロ165が使用されました。

同改正で循環急行 「みさき」 「なぎさ」 が廃止になって、 「外房」 「内房」 と独立した列車になった他、 「犬吠」 「水郷」 が電車化され、 「鹿島」 が新設されました。ほぼ同じ車両で新宿あるいは両国発着だったことから、誤乗防止のためにヘッドマークが付けられることになりました。
幕張の165系と153系は基本的に共通運用で、同じ列車でも165系が充当されることがあれば、153系が充当されることもありました。
昭和53年10月から、房総急行のヘッドマークは同時期に登場した電車特急のイラスト入りヘッドマークに肖って、列車名をイメージしたイラストが添えられました。

しかし、この頃になると153系の老朽化が深刻化されていきます。下関から転属してきた時も老朽化が懸念されていましたが、それでも状態の良い車両を選んでの転配だったのは想像に難しくありません (大垣転属車も同様でしょう) 。さらに海沿いを走る外房線や内房線での塩害も手伝って、老朽化に追い打ちをかける状況となりました。そんなに古びた車を持ってくるなら、165系の新製も考えなかったのか? という疑問も出てきますが、既に時代は特急主導で、特にエル特急が登場してからはダイヤ改正の度に急行から特急に格上げしてエル特急化させる傾向が全国的に見られました。 「わかしお」 「さざなみ」 といった房総特急は全てエル特急でしたし (57.11に登場した 「すいごう」 は除く) 、そんな状況で急行形の新車を製造しても意味がないという判断から、古ぼけても今ある車両を使った方が得策だと思ったんでしょうね、きっと。
このような背景で、房総もまた急行の特急化が拍車をかけ、昭和57年11月の改正で 「外房」 「内房」 「犬吠」 「水郷」 「鹿島」 といった房総急行は全て廃止になり、特急に格上げされました。153系は廃車、165系は波動輸送で残ったものもありますが、それ以外は新潟地区や飯田線へと転出していきました。ヘッドマーク、グリーン車付きだった房総急行の末期は、グリーン車無しの6両編成となり (事実上は欠車扱い) 、ヘッドマークもバカなヲタがパクって欠品状態となり、名無しの権兵衛的な哀れな姿を曝け出して運転していました。

さて、房総特急は一部を除いて東京駅発着でしたが、房総急行は東京駅には乗り入れず、新宿あるいは両国から発着していました。その理由はATCに代表される保安装置の有無にあります。
昭和47年に完成した総武本線の錦糸町 (両国) -東京間は、長い地下区間を走ることから、保安装置としてATCが設置され、車両も運輸省規定のA-A基準を満たした車両でないと通行が不可能でした。将来的な横須賀線との相互乗り入れを見越して製造された113系1000番代は、この基準に則って製造された車両ですが、東京地下線開業にあたっては基準の変更に伴って113系1000番代の在来車は地下線に乗り入れられず、A-A基準の強化やATC標準装備の先頭車を含めた増備車 (通称:1000’番代) が新造されました。そして特急用として新たに登場した183系もこの基準が適用され、先頭車にはATCが取り付けられました。でも、急行用の165系にはそのような装備がされてなく、改造するにしてもATC機器を取り付けるスペース (特にクモハ165には) が無かったのと、これも将来的な話になりますが、いずれ特急主体のダイヤを組む計画があったのか、それを見越してわざわざ改造してまで急行を東京駅に乗り入れさせる必要性を感じなかったのかは定かではありませんでしたが、東京地下線に関しては、特急と快速の二本立てとなりまして、最後まで急行は乗り入れませんでした。ただ、113系を使った臨時急行が東京駅に乗り入れたかもしれませんが、実際に夏季輸送の臨時 「なぎさ」 「みさき」 が113系を使用しましたけど、東京駅乗り入れの記録は無いようです。

画像は両国駅で発車を待っている153系の 「犬吠」 です。
サロが連結されている点と、イラスト入りヘッドマークであることから、昭和53年から57年にかけての撮影と思われます。列車番号を見ると 「301M」 と読めますので、季節臨の6301M 「犬吠1号」 であることが判ります。この当時の 「犬吠」 は、3往復が設定されており、うち2往復が定期運行、1往復が休日に運転される臨時列車でした。定期2往復は新宿と両国をそれぞれ発着とし、臨時便は両国発着となります。
「犬吠1号」 は、両国8時45分発で、途中、錦糸町、船橋、千葉、佐倉、八街、成東、横芝、八日市場、旭と停車して銚子へと向かいます。銚子駅でしばしの休憩を取った後、17時10分発の 「犬吠6号」 として再び両国駅へ戻ります。
特急 「しおさい」 が運転を開始するまでは、1日7往復が設定されていましたが、特急が設定されるとさすがに減便せざるを得ず、3往復まで減少してしまい、このまま廃止まで休日運行を含めて3往復を堅持していました。

今は保線用車両が留置されているだけの寂しい駅になりましたが、かつては総武本線の列車運転上の起点駅であり、客車区などの現業機関も置かれていました。初期の幕張113系の方向幕にも 「両国」 の行く先があり、ターミナルとしての大きさを物語っています。
私が最初に乗った房総特急は 「わかしお」 でしたが、最初に見た房総急行は 「犬吠」 でした。その後、 「内房」 の存在を知りましたが、 「外房」 「水郷」 「鹿島」 に関しては 「お前、誰だよっ!?」 的な感じでした。それだけ 「犬吠」 への愛着があったんでしょうね。見えにくいですが、 「犬吠」 のヘッドマークに描かれているイラストは漁船のようです。犬吠埼でも犬が吠えている絵柄ではなかったんですね。

【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.707、944 (いずれも電気車研究会社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳 第3号 「関東」 (新潮社 刊)
時刻表 1980年12月号 (日本国有鉄道 刊)
ウィキペディア (総武本線)