
先日、都営新宿線に乗ったら、京王の新型車両5000系が通り過ぎるのを目撃しました。普段はロングシートだけど、夕方になると座席をクロスシートに変更して、座席指定列車 「京王ライナー」 として帰宅の乗客に着席サービスを提供するという二刀流の性能を併せ持った車両ですけど、地下鉄にも乗り入れられるみたいですね。というわけで、今回は 「京王新5000系を見た」 記念 (?) に、こちらも名車の誉れ高い、初代の5000系を取り上げたいと思います。
多分、私が初めて乗った京王の車両は5000系だったと記憶しています。家族で多摩動物公園に行った時に初めて京王に乗ったのですが、その時確か、5000系じゃなかったかな。 「多摩動物公園」 行きの方向幕にライオンだかトラだかモモンガだかのイラストをあしらっていますよね (注:一応、ライオンだそうです) 。世が世であれば、コアラになってたかもしれないのにね。
それからこれは乗る以前の、もっと幼き頃に抱いていたイメージなんですけど、京王の5000系と小田急の通勤車両って、顔が似てません? デコに2つ備わっている前照灯、貫通扉に据えられている小さな方向幕、そして太い細いの差、赤 (エンジ?) と青の差こそあれ、前面まで巻き込まれている腹巻き・・と、幼少の頃、 「小田急と京王の車両は同じだ」 って随分と思っていたクチです。
そんなわけで、あまり縁がないけど、5000系にはちょっとした思い入れがありました。でも、あまりそれ以降、5000系に乗る機会は少なくなり、やって来る列車の殆どは6000系だったりしますし、都営新宿線に乗り入れてくるのも6000系でしたしね。
京王5000系は、東急3000系列ほどではないにしろ、編成や足回り (カルダンか吊り掛けか) 、冷房の有無や冷房の形状などからかなりバラエティーに富んだ車両で、正確に分類するのはなかなか至難の業ですが、大きな分類として、4両固定編成が5000系、2両固定編成が5100系で、当時はこの2つを繋げて6両編成で運転していました。画像も先頭が5100系で、奥が5000系になります。
一部では、 「京王では5000系が最初の高性能車」 として扱われている向きもあるようですが、京王初の高性能車は1957年に登場した2000系 (本線用) と1000系 (井の頭線用) になります。しかし、その6年後に斬新なデザインと真新しいボディカラーの5000系が登場したことによって、2000系は一気に萎んでしまいます。井の頭線でも5000系が登場する1年前の1962年にステンレス車体の3000系が登場して1000系が時代遅れになってしまいましたが、京王にとっては、革命的な時期だったのは確かなようです。ただ、車体とかボディカラーとかから考えても、 「5000系が最初の高性能車」 と勘違いするのも無理からぬ事かなとは思います。
東京都の西南部、いわゆる 「三多摩地域」 は、1950年代後半になって急激に人口が増加し、沿線を走る各鉄道会社はその対応に追われていました。京王帝都電鉄もご多分に漏れることなく、彼方此方で通勤輸送対策の工事を年がら年中行っていました。しかし、それをもってしても、もはや限界に達していたので、根本から変えないといけないという、抜本的改革を求める動きが活発化します。
具体的には、
① 地上にあった新宿駅を地下に移す。② 併せて甲州街道に沿って併用軌道だった新宿-文化服装学院前の併用軌道を廃止し、玉川上水の下に地下線を建設する。③ 新設された新宿駅地下駅の上部に地上8階建ての駅ビルを建設し、その中に百貨店を開業させる。④ 将来的に6両編成化を計画していたため、電車線の電圧を600Vから1500Vに昇圧する。など・・・
このプロジェクトは③を除いて1963年までにすべて完成しますが、それでも京王のイメージはあまり変わることなく、当時行ったアンケートでもマイナス要素がプラス要素を上回るものとなり、百貨店進出を計画していた京王にとってはちょっと打ちのめされた感がありました。そこで、鉄道事業や百貨店事業など、グループ総出であれこれ案を打ち出して、さらなる京王の変化を模索し始めます。
鉄道事業として新たに取り組むことになったプロジェクトとしては、
① 新宿-東八王子 (現、京王八王子) 間に特急列車を運転する。② その特急列車専用に新しく車両を製造する。③ 輸送力増強のために、それまで最大4両だった編成を、早めに6両化する。
5000系はこのプロジェクトの付帯要素として製造された車両になります。
前述のアンケートにあった 「京王は暗い」 「京王はトロい」 「京王はスケールが小さい」 「京王は飛躍がない」 などの結果を受けて、 「スマート」 「速い」 「明るい」 をまず最優先に盛り込んで、これに 「使いやすい」 「他の車両とのバランスを崩さない」 という現場の意見を採り入れて、融合且つ調和させて5000系は設計されました。幾度も設計を繰り返し、さらに設計図をたたき台にした縮尺模型を作っては直し、また作っては直しを繰り返しました。
この結果、曲線美を強調して同時にスマートさも兼ね備えたあのスタイルが出来上がりました。パノラミックウィンドウを採用したのは、多分に国鉄の153系や113系が影響しているものと考えられますが、5000系は最後まで高運転台になることはありませんでした。
ボディカラーに関しては、その採用理由や由来がどこにあったのかは定かではありませんが、逆に言えば、5000系の成功の大半があのボディカラーにあると言えるのではないでしょうか。腹巻きも嫌味がない80mmに抑えたのもある種の成功と言えるかもしれません。因みに、腹巻きの太さ80mmというのは、その翌年に登場した営団地下鉄 (→東京メトロ) 5000系の腹巻きにも採用されています (営団5000系はその後、115mmに拡大され、さらに前頭部だけ530mmにあらためられている) 。80mmにしたのは、編成が長くなるにしたがって、そのスマートさを強調するためだと言われています。実際に6両、7両・・と編成を長くすればするほど、細さが美しく見えたという結果も出ています。
ボディやカラーを新しくしたのだから、足回りも新しくしようという動きもあったようですが、敢えて冒険はせずに、2000系列で培われた技術を応用したに留められています。保守の煩雑さを防ぐというのもあるんでしょうけど、それに加えて経済性を重視したものになりました。
当時、国鉄では初の高性能電車である101系が鳴り物入りでデビューしていますが、101系は全電動車方式を前提に設計されたがために、変電所の増設などコストがかかりすぎたという話を聞き、京王でもオールM編成の2000系から2M2Tの2010系にモデルチェンジ (マイナーチェンジ) をして対応していました。しかし、2M2Tなると、普通運用専門ならいざ知らず、特急運転に使うとなれば非力は明らかだったので、主電動機だけオールニューの130kw/1550rpmモーターを採用して搭載しました (増備車からは150kwにパワーアップ) 。駆動装置は平行カルダン、WN駆動で歯車比は6.07 (85:14) になっています。5000系の初期車って2700系から足回りを移植したから、吊り掛け駆動じゃなかったっけ?
こうして華々しくデビューする予定だった5000系ですが、新宿地下駅完成時には間に合わず、2010系の第2025編成をアイボリー+エンジ帯に塗り替えて、これを特急に充てて初列車のテープカット切りを担いました。しばらくの間はこの2010系の特急仕様車は活躍することになりますが、5000系の増備が続き、ある程度の数が出揃うと、通常の運用、色に戻ることになります。
先程、 「京王5000系は大きく4両固定の5000系と2両固定の5100系に分けられる」 とお伝えしましたが、当時の2両固定は5070系を名乗っていました。この5070系が前述の2700系から機器類を流用した吊り掛け駆動車になります。純な新製車は5000系で、5070系はいわば 「アコモ改造車」 とでも言うべきでしょうか。5070系はその後も増備 (改造) が続けられますが、番号が足らなくなってきたので、5100系になりました。ついでに在来の5070系も5100系に改番することになります。だからやはり 「4両固定が5000系、2両固定が5100系」 で合っていると思います。また、5070系は1966年の増備分からカルダン駆動を備えた純新車になりました。
5000系の特急は俊足を誇り、それまで絶対的なアドバンテージがあった国鉄が危惧するようになり、特別快速を運転するようになったのは有名な話ですよね。
5000系の増備は続き、休日ダイヤで高尾方面にも特急を走らせることになり、その際は高幡不動 (北野じゃないんだ) で八王子方面と高尾方面へ分割するダイヤを組み、運転時分の関係から1運用余分に車両を必要としたことから、5070系が1編成多く増えました。
1968年製造の第8次車は、5000系史上、いや、京王史上、いやいや、日本の通勤電車史上重要な意味をなす車両となりました。それが冷房装置の搭載です。
優等列車用の車両以外で冷房装置を取り付けたのは、名鉄の5500系が始祖とされてますが、5500系は通勤用と位置づけるものの、2扉のオールクロスシート車で、純な通勤車両とは言えません。そういう意味で 「多扉車でロングシート」 という “純な通勤用車両” という括りだけなら、京王5000系が最初とされています。
名鉄5500系や7000系に比べて京王5000系は使用時間帯によっては、その混雑度はハンパじゃないため、また、特急だけでなく快速や各駅停車にも使われるため、その都度扉を開閉することから、開閉時でも隅々まで冷風が行き届くか検討に検討を重ねました。まず、比較検討のために5018編成に4500kcalの分散型クーラーを1両あたり8基、5019編成に30000kcalの集中型クーラーを1両あたり1基、それぞれ搭載しました。結果的には集中、分散どちらが良いかというのは結論が出なかったのか、新製車にしても、在来非冷房車の冷房化工事にしても集中、分散両方採用になったみたいで、その形状から多くのバリエーションも生まれました。
このまま京王の主力の座を欲しいままにするのかと思ったら、思わぬ伏兵が登場することになります。1972年に登場した6000系電車です。5000系は昭和44年で製造が打ち切られ、その当時で京王最大の155両が出揃うことになりますが、沿線の通勤事情はますます悪化する一方で、京王だけでなく国鉄も西武も小田急もその対策に追われる毎日でした。この現状を打破するには、ソフトからハードまで様々な分野で改善を進めなければなりませんが、例えば複々線化、例えば長編成化、例えば20m級4扉車の採用など、列挙したらキリがありませんが、京王の場合は複々線化というのは厳しいと判断したのでしょうか、車両面で対策を講じることとして、初の20m級両開きの4扉車である6000系が登場することになります。
6000系は通勤事情改革の旗頭として、また計画されていた地下鉄10号線 (→都営新宿線) との乗り入れを視野に入れた設計となりました。
6000系の登場によって、特急などの優等列車運用が少なくなり、特に非冷房車については早々に優等列車運用から外れて各停運用に就くのがメインになってきました。また、 “グリーン車” と呼ばれる2000系列の旧形車両は続々と淘汰されていき、登場してそんなに経っていないのに、5000系は2000系列の穴埋めをやらされるようになります。ただ、冷房車については、定期の優等列車運用は少なくなったものの、行楽シーズンに運転される臨時特急の 「高尾」 「陣馬」 、年始に運転される 「迎光」 にしばしば充当されていました。なお、5000系は地下鉄乗り入れ非対応のため、都心乗り入れは勿論のこと、新宿-笹塚間の 「京王新線」 にも乗り入れが出来ませんでした (但し、試運転とか回送とかのイレギュラーでは入線した記録があるらしいです) 。
事故廃車の1両を除いて、1980年代までは1両の廃車もなく活躍していましたが、事実上の5000系の後継車両である7000系が登場すると、本格的に淘汰が始まります。まず2700系の足回りを流用して車体だけ新造した5100系 (旧5070系) が対象で、吊り掛け車に関しては1996年までに全廃されます。ただ、解体するには勿体ないからと、愛媛の伊予鉄道が引き取りを申し出て、21両が四国に渡ります。それが 「第二の車生」 の始まりで、以降、富士急行、一畑電鉄、銚子電鉄、高松琴平電鉄などに譲渡されて、今も活躍している車両があります。
最後は動物園線や競馬場線での支線運用がメインとなり、1996年12月にさよなら運転を行って、33年にわたる歴史にピリオドが打たれます。
引退した車両のうち、クハ5723が京王れーるランドに静態保存されていますが、前述のように多くの仲間が地方で活躍していますので、塗装さえ我慢すれば、まだまだその姿を見ることが出来ます。
私にとって 「京王」 といえば、まだまだ 「京王帝都電鉄」 だし、 「5000系」 といえば、この初代が真っ先にイメージとして先行します。決して 「京王電鉄」 ではないし、 “二刀流” の新5000系じゃないんですよ・・・。
【画像提供】
は様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.408 (交友社 刊)
日本鉄道旅行地図帳第4号 「関東2」 (新潮社 刊)
ウィキペディア (京王5000系電車 (初代) 、京王電鉄、京王線など)