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大阪鉄道管理局が並み居る私鉄に対抗するため、同局の威信をかけて登場させた新快速。昭和45年の登場当初は113系を使用していましたが、昭和47年からは急行列車の削減で余剰となった153系を転用して運用に充て、イメージを一新するために外板塗色を灰色9号+青22号の腹巻きに変更しました。そして 「ブルーライナー」 という愛称を得て、見事にその思惑は当たりました。昭和55年には新形電車117系を投入して、153系は引退していきますが、新快速のイメージは153系投入時に完成した感があります。117系 「シティライナー」 はそのイメージをさらに発展させた格好になろうかと思います。221系とか223系、225系の新快速しか乗ったことがない私にしてみれば、 「ブルーライナー」 は羨望の列車でした。

ところで、この画像は何処で撮ったものなんでしょう?
最初、塚本駅から撮ったのではと想像しました。でも、そしたら新快速の走る位置が違いますよね。それとも方向別から線路別に複々線の配置が変わる山陽本線の新長田以西で撮った? とも考えるのですが、そしたら、新快速と並走する (すれ違っているのかもしれませんが) 113系快速の説明がつきませんし、風景もどことなく新長田以西とは趣を異にします。やはり、東海道本線内の可能性が大ではないかと思うのですが、それでも本来の営業列車であれば、国鉄時代の新快速が方向別複々線の外側線 (列車線~国鉄本社が管理) を走るのは有り得ないです。だから余計に 「この画像は一体・・・?」 と、不思議×10のレベルなんです。
もし、塚本駅での撮影であれば、新快速用153系の塒である宮原電車区 (大ミハ~現在のJR西日本網干総合車両所宮原支所) を出区して大阪駅に向かうところなのかなとも考えられますが、いくら回送列車でも新快速は外側線を走らせないんじゃなかったかなと記憶しています。
方向幕に 「草津」 を掲出しているので、京都方面行きであるのは判ります。
宮原を出区した京都方面行きは、北方貨物線を西進して、塚本信号場で東海道本線に合流しますけど、この段階で新快速は方向別複々線の内側線 (電車線~大鉄局が管理) に転線して大阪駅に入線するはず。でも、外側線を走っています。もしかしたら、並走している113系快速が遮っているから、外側線に入った・・ということなら何となく説明もつきますが、新快速自身 (大鉄局も) は 「回送やなくて、営業列車で外側線を走りたいんや」 って思っていたに違いありません。

昭和61年11月に国鉄最後のダイヤ改正が行われまして、そこで晴れて新快速の外側線走行が実現しました。それは、民営化以降は外側線も内側線もJR西日本の管理になるからです。でも、もう少し早い段階で新快速の外側線走行が認められていたら、新快速の歴史も変わっていたかもしれませんね。国鉄のセクショナリズムで、大鉄局が半ば独自で走らせた新快速を国鉄本社は快く思わず、長年に渡って、 「外側線はいかなる理由があろうとも、優等列車と貨物列車しか走らせない」 を徹底していました。国鉄時代の新快速は、データイムにしか運転されなかったのもセクショナリズムが関係します。つまり、朝夕のラッシュ時に新快速を走らせようものなら、常に前方に 「妖怪通せんぼジジィ」 がいて、スピードが売り物の新快速は本領を発揮しなくなるから、走らせたくても走らせられなかったんですね。今は、外側線を走るから、朝から晩まで新快速はひっきりなしに走っているでしょ。だから、国鉄時代は不遇だったんですね。その腹いせかどうかは定かではありませんが、行く先々、特に京都-大阪間で並走する 「雷鳥」 などの特急列車をブチ抜いたんだそうです。快速は一応、普通扱いです。だから、 「普通列車に抜かれる特急列車」 と事ある度に叩かれたようです。今は同じ線路を走るから、新快速が特急を抜くのは出来ません。

灰色+青の腹巻きは同時に登場した阪和線の新快速にも採用されましたが、阪和線の新快速は僅か5年で快速に統合されて姿を消しました。しかし、カラーはその後も残存し、阪和線や紀勢本線でつい最近まで見ることが出来ました。私はそっちの方は見たことがありますし、影響されてNゲージも買いました。

重ね重ね、良い色です。

【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.944 (電気車研究会社 刊)
ウィキペディア (JR神戸線、北方貨物線、塚本駅)