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これも 「Then & Now」 の題材候補だったのですが、数年前に同じ場所 (撮影地は西中島南方駅だと思われます) で撮影していますので、今回は列車の先頭を飾る100形電車にスポットを当てたいと思います。

いよいよ4月1日、大阪市交通局から大阪市高速電気軌道に生まれ変わり、新たなスタートを切る大阪市営地下鉄ですが、その始まりは今から85年前の1933年。日本で二番目の地下鉄、そして日本初の公営地下鉄として産声を上げました。最初の開通区間は、現在の御堂筋線の一部である梅田-心斎橋間でした。開業に際して投入されたのが画像の100形で、大阪市営地下鉄の第1号車両ということになります。

日本における地下鉄車両の先陣は、東京地下鉄道 (→営団地下鉄→東京メトロ) の1000形ですが、100形は東京地下鉄の1000形 (当然のことながら初代) を踏襲せず、ニューヨークや欧州の地下鉄車両に範を採ったとされています。こうした部分からも大阪の東京に対するライバル心と言いますか、 「東京とは違うものを作るでぇ」 という意思表示の表れなんでしょうかね?

車体は長さが17m、幅が2.8m、重さが40.3tで、いずれも東京地下鉄1000形よりも大きく設計されています。湿度の高い地下を走る事を考慮して、防錆効果の高い含銅鋼板が車体製造の素材として採用されており、リベットによる接合で組み立てられています。側扉や内装の一部には軽合金が使用されていて、一定の軽量化も図られています。

車内は背向きのロングシートで、混雑時の運行を考慮して、琺瑯のスタンションポールが立てられていましたが、部分開業時には運転区間が短いとの関係から、荷棚は設置されていませんでした。また当初は、車端部に電照式の駅名表示器が設置されていまして、モーターでの駆動で次駅を表示しました。しかし、故障が頻発したことと、車内放送の実施によって必要性が無くなったことから、早期に撤去されています。
開業当初はクリーム+水色のツートンカラーで、戦後になって下半分がオレンジに変更されています。画像はモノクロですけど、おそらくクリーム+オレンジのカラーリングだと思われます。なお、現在も保存されている105号車は、開業時のクリーム+水色のツートンカラーになっています。
画像でも見えますが、100形にはホームから乗客が転落するのを防ぐために、 「安全畳垣」 とよばれる蛇腹状の転落防止柵が設けられていました。これはニューヨーク地下鉄を模したものですが、同時期に取り付けていた参宮急行電鉄 (→近鉄) や阪和電気鉄道の車両が早々に撤去したのに対し、100形は廃車までそのまま残置されました。
現在のJR西日本の車両にはこの転落防止柵を取り付けて落成したり、既存の車両にも順次、追加で取り付けられていますが、100形は先見の明があったんですかねぇ~?

主電動機は芝浦製作所 (→東芝) 製のSE-146型。出力は馬力に換算して230PSと、当時の電車用モーターとしては驚異的なスペックを誇り、日本最強と言われていた新京阪鉄道 (→阪急京都本線) のデイ100 (P-6) が搭載していたモーターよりもパワフルだったそうです。
制御器は、新京阪や阪和電気鉄道 (→JR阪和線) の電車に採用されて実績のあった東洋電機のES-504A型を改良したES-512A型電動カム軸自動加速制御器が搭載されています。力行5段、並列4段、弱め界磁1段、発電制動8段という構成で、力行時には弱め界磁は使用出来ませんでしたが、回路的には使用可能な設計になっていました。これは将来的に、大阪郊外まで延長することと、同時に急行運転を実施する計画があり、その際には架線集電による1500V運転も計画されていたので、主電動機を第2・第3軸に追加架装して、1・4軸と2・3軸の2群で直並列制御出来るよう、各機器の配置が決められていて、制御器の結線や各部の艤装などもこの電動機追加と1500V対応に備えたための準備工事が最初から行われていたためのようです。

制御器を含む低電圧系統の回路に電力を供給する補助電源として、電動発電機 (MG) が搭載されています。これもニューヨーク地下鉄に倣ったもので、ポイントなど第3軌条の設置が出来ない区間での室内灯消灯や動作不能などを防止するための措置とされています。東京地下鉄の代々の車両はMGが搭載されていなかったためか、駅構内などの無電区間では一瞬、室内灯が消えていましたが (同時に銀座線名物でもあった) 、大阪市営地下鉄の車両は最初からMGを搭載していたので、このような現象は起きませんでした。

ブレーキはウェスティングハウス・エアブレーキ社製のU-5型自在弁を採用しており、これに三菱造船所製のAMU自動空気ブレーキが併用されています。このU-5型は12両編成まで対応出来る最新鋭のもので、既に新京阪 (→阪急) 、参宮急行 (→近鉄) 、阪和などで採用歴がありますが、大阪市の場合は当初から12両編成運転を見込んでいたため、将来的に電磁給排弁を付加してAMUE電磁空気ブレーキ化することを前提とした機器配置とした点が、他社採用よりも一歩抜きん出ていた仕様になっていました。

東京とは違う、様々な新機軸を盛り込んで製造された100形ですが、搬入時は大変な労力を費やした伝説があります。
「地下鉄は何処から入れるんでしょうね? それを考えたら夜も眠れなくなる」 という漫才の名フレーズがありますが、大阪市の場合は、部分開業とはいえ、全線地下区間ですので、どんな方法にしても最終的には地下に搬入しなければなりません。様々な案が検討された結果、市民へのお披露目も兼ねて、車両メーカーで製造された車両はまず、鉄道省 (→国鉄→JR) の梅田駅 (→JR梅田貨物駅) まで送り込まれ、ここで一旦、本台車から仮台車に履き替えて輸送。阪神前→新町橋→南御堂前というルートを辿り、ここに設置された開口部から電車を搬入しました。梅田から南御堂までは、トラクターと牛が牽引に充てられ、通常、5分程度で結べる梅田-新御堂間を何と4時間かけて異動しまして、それよりも牛が電車を引っ張るという光景は長らく、大阪市民の伝説として語り継がれることになります。

1933年に梅田-心斎橋間が開業すると、当初は単行で難波まで延伸開業後は2両編成での運転となりました。また、単行運転時は設置されていなかった貫通幌も連結運転するようになってからは貫通幌を付けるようになり、車両間を行き来出来るようにしました。また、尾灯の追加や扇風機、放送装置の追加なども行われました。

大阪市営地下鉄はその後も順次、路線を延ばし、後継車両も次々と登場していく中で、100形は老朽化の兆しが見えるようになりました。大阪市営地下鉄歴代の車両は、各線で使用されていましたが、100形は最後まで1号線 (御堂筋線) で使用され続けていました。
営団地下鉄の1000形は1968年に全車引退していますが、100形は大阪万博が開催される1970年までに、基本的に当時最新鋭だった30系に置き換える計画を打ち出し、実際に100形を始めとする旧形車両は30系に置き換わって引退することになります。大阪市交通局では、輸送に貢献した車両を保存する方針があり、市電の車両やトロリーバスがその対象として保存されていますが、最初の地下鉄車両である100形もご多分に漏れることなく、保存の対象として検討されます。基本的にはトップナンバーの車両を保存対象にするのがお約束になっていますが、当時の101号車は度重なる改造工事で原型が失われていたことから、比較的原形を留めていた105号車を保存車両として選出されることになり、画像の110号車やトップナンバーの101号車を含む9両は全て廃車・解体の憂き目に遭います。また、保存車両は姿形こそ残すけど、本線運転することは無い、従って車籍を有する必要性が無いことから、1972年に105号車も車籍を失い、ここに100形は形式消滅となります。105号車は、当初は朝潮橋の交通局研修所に静態保存されていましたが、紆余曲折の後、緑木検車場に設けられた専用保存庫に移されました。現在も、イベント時にはその姿を見られます。

前述のように、画像は西中島南方駅での撮影と思われます。 「あびこ-新大阪」 というサボを掲出していることから、梅田-新大阪間が開業した1964年以降の撮影ではないでしょうか (我孫子までの延伸開業は1960年のこと) 。また、1963年には8両編成での運転も実施されています。
以前、お伝えした西中島南方での今昔対比でも判るように、この半世紀の間に南方や新大阪周辺はガラリと一変して往時を偲ぶ痕跡を見つけ出すのはほぼほぼ不可能です。第三軌条ということで、架線や架線柱も無いし、ましてや御堂筋線を囲むようにして通している新御堂筋も無いので、大阪の空って高かったんだなという実感をあらためて感じています。

4月1日以降も大阪市民の足として、重要な使命を帯びている大阪の地下鉄です。

【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
週刊歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 No.05 「大阪市営地下鉄・北大阪急行電鉄」 (朝日新聞出版社 刊)
ウィキペディア (大阪市電気局100形電車、大阪市交通局、大阪市営地下鉄御堂筋線など)

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