私が抱く山陽電鉄の印象は、やはり3000系になるんですが、後継車両 (5000系) が登場してもなお、3000系は山陽電鉄の主力としてその地位を譲ろうとしません。そして、3000系が登場する前の山陽電鉄の主力といえば、やはり2000系になろうかと思いますが、今回は山陽2000系にスポットを当てます。

山陽2000系は1956年に登場した、山陽電鉄初の高性能電車で、3000系登場まで山陽電鉄の主力として製造が続けられ、主に特急仕業が中心でした。
この間、鋼製、ステンレス、アルミと車体の素材や扉数などの違いでバリエーションがいくつかあります。第1~3次車は鋼製でしたが、4次車は塗装の省力化などのコスト削減を目的として、試験的にステンレス車体が採用されました。ただ、オールステンレス車ではなく、台枠や骨組みは普通鋼製を用いた、いわゆる 「スキンステンレス」 車でした。ステンレス車体といえば、東急車輌 (→総合車輌製作所) が有名ですが、山陽2000系は川崎車輌 (→川崎重工) 製になります。

そして1962年、5次車として製造された3両編成×2本のうち1編成は、川崎車輌がドイツのWMD社と提携したアルミ合金製車体を採用しており、日本初のオールアルミ製車体となりました。
この頃の鉄道車両は鋼製車体が中心で、頑丈だという長所がある一方で、重量増や塗装の手間、さらに耐用年数などの諸問題も山積しており、次世代の鉄道車両における車体素材を各鉄道車両製造メーカーは試行錯誤を重ねながら、研究開発を積み重ねていました。
戦後間もない1946年、国鉄のモハ63系電車やオロ40形客車に、アルミニウムの一種であるジュラルミンを用いました。元々は、航空機 (戦闘機のことでしょうね) を製造する時に使用されるはずだったのですが、第二次世界大戦終戦後、GHQによって航空機の製造が禁止されて製造出来なくなったため、 「んじゃ、鉄道車両に使ってみるか」 とお試し的に採用されたのが事の発端です。特にモハ63形は  「ジュラ電」 と呼ばれて親しまれましたが、耐食性が低く、車体の腐食が急激に進んだため、10年持たずに普通鋼製に載せ替えられました。
その後、鋼索鉄道や軽便鉄道の車両用にアルミ製が用いられたことがありましたが、一般鉄道でアルミ製車体を用いたのは、貨車のタキ8400形が最初になります。山陽2000系は高速電車として初めて採用されただけでなく、上述のようにオールアルミ製車体だという点がミソ。タキ8400は背反だけアルミで、後の金属部品は鉄製 (鋼製) だったのでしょうね。山陽2000系は外板だけでなく、その他の細かな金属部品 (貫通路桟板など) もアルミで作られたことから、オールアルミ車体となり、それが日本で初めてということなのでしょう。

アルミの本格採用という未知の領域で、その工法に関しては、資格を持った職人が充たっていました。設計加工技術がまだ手探り状態だったということもあって、例えば、骨組みの接合は、身長を喫してリベット接合を併用したり、車体の歪みを目立たなくするため、側板にうろこ状の模様をバフ研磨で描いたり、さらにはパンタグラフの摺動によって飛散した銅粉が付着して車体が腐食するのを防ぐ目的で最初期は、クリアラッカーでオーバーコーティングされていたりしました。

主電動機は、2次車から採用された三菱製MB-3037-A型を発展させたMB-3027-A3型を搭載し、台車は空気バネが期待されましたが、ここは保守本流ということで、コイルバネ軸梁式のOK-25型 (付随車はOK-21A型) を履いています。
なお、この5次車から側扉が3つとなりました。ラッシュ対策ということですが、2~3両が主流だった山陽電鉄にあって、4両編成という選択肢は無かったのか? という疑問が湧きます。その一因が電鉄兵庫-西代間が併用軌道だったことが挙げられます。併用軌道区間で大型の電車が走らせるには3両がリミットだったんでしょうね。その後、神戸高速鉄道を介した地下線が開業してようやく基本編成が4両となったのですが、編成が増やせないのなら、せめて扉数でも・・・と考えたのでしょう。

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こちらは、登場当初の画像で、おそらく鉄道友の会主催の試乗会の模様と思われます。なお、この試乗会、 「動く映像」 も残されており、それについては、弊愚ブログでも度々取り上げている 「総天然色の列車達 第2章第三巻~西日本私鉄篇 (前篇) 」 に収録されています。映像の方は、タイトルが示すように、カラー映像になります。
因みに、試乗会の電車が停まっている駅は、当初、電鉄兵庫駅かと思っていたのですが、前述の映像とも照らし合わせた結果、電鉄姫路駅であることが判りました。

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試乗会を終えて、一般営業に就く2000系アルミカー。
前述のように、2000系は特急仕業を中心に運用が組まれ、神戸高速鉄道の開業後は阪急や阪神にも乗り入れていましたが、本格的な乗り入れ用として3000系が製造されると、その任を3000系に譲り、以降は専ら普通用として本線の他、網干線にも乗り入れるようになりました。

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2000系には、700系の車体更新車である2700系やその2700系の機器類を更新した2300系といった派生系列がありましたが、旧型車淘汰後は優等列車用が3000系、普通用が2000系といった立ち位置になり (3000系も普通運用に就くことも勿論、あった) 、しばらくその体制が続くことになります。
そんな2000系も1980年代になると、各部分で老朽化が目立つようになり、1981年に3000系の増備車が、1986年にオールニューの新型車両、5000系がそれぞれ登場し、2000系を置き換えるようになります。2次、3次、4次車、5次車のステンレスカーは5000系の登場によって1989年に引退していますが、1次車と5次車のアルミカーは最後まで残っていました。この間、行く先表示器の設置や、耐摩耗性や耐久性の問題から、貫通路の桟板などを鋼製に変えた意外は殆ど原型のまま引退まで活躍し、その耐久性の優秀さを再認識させられました。
こうして1990年、鋼製の1次車とともにアルミ車体の歴史に燦然と輝く2000系5次車は引退していきます。3枚目の画像は、そのさよなら運転の模様と思われます。
引退後、同車 (2012-2505-2013) は産業考古学的な見地から、解体されずに現在も東二見車両基地に保存されています。

私は当初、2000系のアルミカーってかなりの両数が製造されたと思っていたんですね。それで、試乗会からさよなら運転まで2012号車が請け負っていたのは何か因縁めいたものを感じたため、この記事を書こうと決めたのですが、後から知ったことですけど、2000系アルミカーは、3両×1本しか無いことが判り、ちょっと愕然としちゃいました。だから、試乗会からさよなら運転まで請け負えるんだってね。でも、後々の3000系がアルミ車体を採用したことから (神戸高速鉄道開業に伴う増備は鋼製車体を採用) 、2000系で培ったDNAは連綿と受け継がれていくことになります。だから “栄光” なんでしょうね・・・。

【モノクロ画像提供】
ウ様
【カラー画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.245 (交友社 刊)
週刊私鉄全駅・全車両基地 No.27 「山陽電気鉄道」 (朝日新聞出版社 刊)
ウィキペディア (山陽電鉄2000系、2300系、アルミニウム合金製の鉄道車両、電鉄兵庫駅)