
横須賀線用として登場し、その後、各地に転じていった70系電車。スカ色を基本に、関西急電色、阪和線色と様々なカラーバリエーションを生み出しましたけど、その中でも一番 “特異” ながら、人々強烈なインパクトを残したものに新潟色があります。一見すると、修学旅行色にも似て無くもありませんが、修学旅行色は朱色になります。新潟色は黄色が総武線や南武線の通勤電車でお馴染みの 「カナリアイエロー」 で、赤は特急用車両に用いられる赤色 (慣用色名称 「えんじ」 ) になります。これは雪国を走る電車だから、思いっきり目立とうという意思表示の下に、採用されたカラーと言われており、唯一無二のカラーバリエーションということで、孤高の存在となっていました。
時は昭和37年6月、信越本線長岡-新潟間の電化が完成し、先に電化が完成していた上越線と合わせて、首都圏と北信越を結ぶルートが全て電化されたことになりました。
この電化完成を機に、首都圏と新潟を結ぶ特急電車が設定され、これには 「とき」 の愛称が与えられました。上越新幹線が開通する21年前のことです。そして、新潟地区のローカル輸送には各地区から旧形の電車が集められ、その主力になったのが70系でした。最初モハ70、クハ68がそれぞれ5両ずつ、合計10両が雪国新潟に転属してきましたが、前任区所は明石や高槻といったように、大鉄局の車両が中心でした。まだこの時は新潟色が考案されていなかったので、茶色 (ぶどう色) のままでの転入となりました。また、新潟地区の電車の塒になる新潟運転所 (新ニイ~後のJR東日本新潟車両センター) も開設していなかったので、優等列車以外の電車は長岡第二機関区 (新ナカ二) に配置されました。因みに、新潟色が採用になったのは昭和39年からで、モハ70112とクハ68015がその第一陣になります。
「新潟にも電車が走る時代になった」 と地元では大喜びだったようですが、その期待感とは裏腹に、新潟色の電車達は常に、災害がつきまといました。
新潟地区に初めて電車が走ったその翌年、世に知られる 「サンパチ豪雪」 に見舞われます。最大積雪量は、三条市で4.1m、長岡市で3.2m、新津市で1.5mを観測した、歴史上でも屈指の大豪雪でした。
当然のことながら、鉄道も動けなくなり、昭和38年1月24日から28日まで5日間、完全運休となりました。その間、雪かき車や人力によって雪を除去しますが、それでも雪は止みませんでした。1月29日に一部列車の運転を開始しますが、再び雪の降り方が尋常じゃなくなったため、列車の運行が危うくなりました。
この時、長岡-新潟間の電車列車は1日2往復設定されていましたが、うち1編成は長岡で身動きが取れなくなり、もう1編成は新潟で “虜 (擒) ” 状態となり、やむなく、その電車で新潟-新津-東三条間を往復運転することにしました。同時期に開設した新潟運転所には電車の配置が無く、加えて電車運転士もいないため、助勤者が到着するまで1人の運転士が連日連夜、ひたすら運転を続けたのです。 「プロジェクトX」 のネタになりそうな奮闘劇だったそうです。
新潟地区の電化に際して、転入してきた電車は関西地区の車両が中心だったというのは先程もお話ししましたが、雪国での使用ということから、耐寒耐雪仕様にしたのは言うまでもありません。しかし、今回の 「サンパチ豪雪」 は当局の予想を遙かに凌ぐ豪雪でして、 “想定外” っちゃあ想定外ではあるんですが、特に先頭車のクハ68の耐雪改造が不十分で、空気笛 (タイフォン) が雪で詰まってしまい、使い物にならなくなってしまったという、笑うに笑えないエピソードもありました。そこで、今後のことも鑑みて、列車番号表示幕を埋めて、そこに予備の空気笛を増設しました。また、前面扉や前面窓にツララよけも増設し、後に転入してくるクハ76にも同様の改造を施しました。
「サンパチ豪雪」 の翌年、昭和39年6月16日、新潟県粟島付近を震源とするにマグニチュード7.5の大きな地震が襲います。いわゆる 「新潟地震」 ですが、早朝やお昼時を避けた地震だったこともあって、被害は最小限に食い止められました。鉄道車両の被災も貨車の水没や跨線橋の下敷きになった気動車 (キハユニ17 2) だけで済みました。しかし、新潟地区は信濃川や阿賀野川流域に地盤の軟弱な地域が多くて、それに伴って液状化現象が発生して大きな被害が出ました。
地震発生から3日後の6月19日に新潟駅の東部にある笹口地区に仮の新潟駅を設置しました。1面1線のホームを置いただけですが、電車の機動力を最大限発揮したのは皮肉にも災害の影響でして、一気に電車化へ動き始めます。
昭和40年代は大きな自然災害はなく、首都圏や関西圏で新形電車が続々と投入され、その炙れで70系が新潟地区に大量にやって来ることになります。正面2枚窓のクハ76が転入してくるのは昭和38年からですが、増備とともに、運行範囲も拡がります。信越本線だけの筈が上越線にも足を踏み入れ、列車によっては高崎まで足を延ばしていました。さらに信越本線も長岡から西、直江津や妙高高原まで行く列車も現れ、広範囲で黄色と赤の電車を見ることが出来ました。なお、転入してきた70系の殆どはいわゆる “0番代” がメインで、全金属製の300番代は僅かに1両のみでした。また、サロ75を格下げして先頭車化改造を施したクハ75や、80系のサハ87もこの仲間に加わっています。
昭和40年代後半になると、老朽化が目立ち始め、これを置き換えるべく小山電車区から115系の初期車がやって来ます。さらにその115系は広島や岡山に転属していき、代わりに新製の115系1000番代が配置されます。これはやはり、雪への対策を万全にした車両を投入した方が得策だろうと判断されたものと推察しますが、いくら寒冷地仕様でも、115系0番代ではその役目をなさないということなんでしょう。
こうして、新車投入で一気に若返った感に見えた新潟地区にまた、自然災害の猛威が襲います。
昭和53年5月18日、妙高山麓を中心とした地域で大きな地滑りが発生し、その関連で大規模な土石流が発生しました。これによって、信越本線の関山-妙高高原間の築堤が破壊されてしまい、半年近くに渡って両区間は不通となってしまいました。また、同年6月26日には梅雨前線の活発化のよって、新潟県内で大雨による大水害が発生し、この時は鉄道車両にも大きな被害が出ました。特に柏崎駅構内は、河川の氾濫で駅が水没してしまい、同駅の電留線に夜間滞泊していた115系と70系、越後線用の気動車と貨車が水没してしまいます。新製間もない115系1000番代は当然、修繕しますが、70系 (クハ75002-モハ70028-モハ70071-クハ76077) はそのまま廃車処分となってしまいました。また、115系の修繕が完了するまで、信越線急行用の169系を動員したり、石打で廃車前提の疎開留置されていた70系も復帰させてこの窮地を脱しました。この70系 (クハ76064-モハ70022-モハ70102-クハ76049) は、新潟地区における70系のさよなら運転にも充当されました。この編成に組み込まれているモハ70102は、昭和37年の70系投入時の第一期生でもあり、幾多の試練を乗り越えて、最後まで生き残った1両になりました。世が世であれば保存展示という選択肢もあったのでしょうけど、国鉄新潟鉄道管理局はそこまで考えなかったようで、そのまま解体処分となっています。
黄色と赤の新潟色の電車が消えたのは昭和53年のことですが、それから39年、ついにこのカラーが復活します。
JR東日本新潟支社のプレスリリースによると、 「懐かしの新潟色再登場」 ということで、新潟車両センターに配属されている115系3両編成に、赤黄のツートンカラーに塗り替えることが決定したそうです。
115系がこのカラーを纏うのは初めてのことで、注目を集めるのは必至ですけど、私はだいぶ前から 「何で新潟地区に投入された115系に、新潟色を採用しなかったんだろう・・?」 って疑問を抱いていました。湘南色でも目立たないことは無いのですが、当時の新潟鉄道管理局でも 「せっかく新車を導入するんだから、70系と同じ色に塗ろう」 という機運はあった筈なんです。でもきっと、本社が首を縦に振らなかったんでしょうね。 「地域色は関西の153系や113系だけで十分」 という考え方が国鉄本社にはあったものと推察します。
イメージイラストを見る限りでは、 「115系に新潟色って、意外に合わないな」 と感じたのですが、実際に実物を見た時に、その下馬評がどう変化するのか、別の意味で注目したいと思います。
【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.713 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.671 (交友社 刊)
週刊JR全駅・全車両基地 No.21 (朝日新聞出版社 刊)
ウィキペディア (国鉄70系電車、新潟地震)