
現在、京都鉄道博物館で保存・展示されているEF65 1号機の現役時代の姿です。
500番代とか1000番代とか、ブルートレイン牽引機としてのイメージが強いEF65ですけど、スポットライト浴びたのはほんの僅かで、大半は貨物列車を黙々と牽引する地味な機関車でした。特に 「一般形」 と称することがある0番代は、スポットライトを浴びるどころか、時にはEF60と間違えられたりするいつも困惑顔の機関車であったのも事実です。でも、さすがに完成度の高い機関車だけあって、現場の評判は頗る良く、平坦用直流電機機関車の標準型として、135両が製造されました。
前述のように、一方ではブルートレイン牽引機に抜擢されるなど、客貨両用ではありますけど、本来は貨物用です。
戦後、急激に伸びていった国鉄の電化路線。特に東海道本線は最優先で全線電化を目指して工事が進められていました。そして昭和31年11月に米原-京都間が電化されて、ここに東海道本線の全線電化が完成したわけですが、時同じくして、日本の経済も右肩上がりに急成長を遂げていくのです。いわゆる 「高度経済成長」 の幕開けなんですが、在来線としての東海道本線の全盛期は高度経済成長とリンクする昭和30年代であったという人々は少なくありません。経済が伸びれば、それだけ旅客も貨物も需要が伸びることになり、東海道本線は旅客列車、貨物列車共々、軒並み増発の一途を辿るのです。特に貨物列車は、高速道路も無い、トラックも無いなど、競合する相手がいないこともあって、まさに一人勝ち状態で、増発する列車に対応するため、貨物用機関車が大量に製造されていきました。時代が前後しますが、東海道本線全線電化前にはEF15とEH10が、電化完成後、やや遅れてEF60が登場し、この3形式で東海道本線の貨物列車を一手に引き受けていました。
昭和35年に1両でEH10を凌駕するパワーを叩き出したEF60が登場するのですが、昭和37年からは20系客車用に500番代が製造されて、EF58に代わって 「あさかぜ」 や 「さくら」 などの寝台特急牽引を受け持つようになりました。しかし、本来が貨物用であるEF60には旅客列車、とりわけ特急列車に必要なスタートダッシュが決められず、鈍足なEF60 500は間もなく不評の嵐になります。この原因は、将来的な予定として計画されていた1300t列車の牽引を見越して、歯車比を多くとり、低速域の加速力にウェイトを置いたため「だとされています。このため、旅客用のEF61を代わりに使用することも考えられましたが、ご存じのように、EF61は蒸気発生装置 (SG) を搭載していたため、20系牽引には向かないことや、貨物列車の速度向上なども計画されていたので、貨物牽引にウェイトを置きつつも、客車牽引にも対応出来る新しい機関車を開発することになり、その結果、登場したのがEF65でした。時に昭和39年のこと。
EF65一般形は、EF60の四次形と瓜二つのスタイルをしており、形式を見ないとEF60なんだかEF65なんだか判らないほど、そのスタイルは酷似しています。僅かな識別点として、屋根上モニターの端部処理がEF60とEF65とで異なるだけ (EF60は斜めになっているのに対し、EF65は垂直になっている) 。言い換えれば、EF60の増備車と考えても良いのでしょうけど、中身は全くの別物です。
主電動機こそ、EF60 (15号機以降) と同じMT52を採用してますが、歯車比を3.83 (EF60は4,44~これも15号機以降の二次形) に下げたことで、定格速度を45km/h (同、39km/h) に、最高許容速度は115km/h (同、100km/h) にそれぞれ向上しました。引張り力は20.350kg (同、23.400kg) と引き下がりましたが、10%の上り勾配で1300tの負荷を牽引してもつり合い速度で45km/hを保つことが出来、同条件で停止した状態での引き出しも可能になりました。
また、抵抗制御器、界磁制御器及び逆転器がEF60が単位スイッチ (電磁空気単位スイッチ) だったのに対し、EF65は電動カムスイッチになり、ノッチ進めは限流継電器による自動ノッチ進め方式に変更されました。空転時も自動ノッチ戻しにより、再粘着促進が図られることから、運転操作が簡略化され、EF60のように加速時に電流計を注視しながら1段ずつノッチを進める (つまり、シフトアップ) 必要が無くなりました。
制御器のコントローラーには、シリコン素子を用いたSCRを採用して、継電器の無接点化を図りました (EF60は短絡継電器) 。このコントローラーは交流100Vを使用するので、電動発電機にはEF64共々、交流発電機を採用しています。
EF60には1号機と2号機が一応、試作機扱いとして様々な習熟訓練等に使われましたが、山陽本線の全線電化もあって貨物輸送の増加は待った無しの状態であったことも絡み、EF65はそういった試作機は存在せず、いきなり1号機から量産体制に入りました。落成車は順次、吹田第二、稲沢第二、新鶴見などの機関区に配置され、乗務員の習熟や訓練に活用されました。
こうして特に大きな問題も無く、EF60よりも使い勝手が良いということで、次々に増備が続けられました。この途上で、20系客車牽引用の500番代P形や高速貨物用のF形も登場しています。しかし、F形は颯爽とデビューしたものの、EF66やEF65PFの登場によって、行き場を失って一般形と同様な扱いを受けたのは有名な話ですよね。なお、48号機からは、スカートに備えられていた通風口が尾灯の斜め上に移設されて、EF60との識別がさらに容易になりました。
EF65一般形は、なおも増備が続けられ、昭和43年度の発注分で100両を突破することになります。1号機から連綿と吹田第二、稲沢第二、新鶴見と配置が固定化していましたが、この増備分では初めて岡山機関区に配置されました。この間に一般形、500番代P形、同F形を統一したような決定版EF65が登場しました。それが1000番代 「PF形」 です。世間的にはPF形は客貨で仕様が異なっていた500番代を一纏めにしたモデルとなっていますが、一般形の仕様も盛り込まれており、故に 「EF65の決定版」 と形容する向きもあります。この1000番代登場によって、一般形の製造も事実上の打ち切り状態となり、以降の増備は1000番代に一本化されることになります。ラストナンバーは135号機で、これだけでも大量生産だというのが判りますが、これに500番代 (P、F形含めて) が34両、1000番代が139両を合わせると、EF65としては308両となり、言うまでもありませんが、国鉄の電気機関車としては最多両数ということになりますし、今後もこの記録は破られないでしょうね。
1号機は新製から廃車までずっと吹田第二機関区に在籍してて、東海道・山陽本線を中心に貨物列車を来る日も来る日も牽引しました。国鉄の分割民営化を前に、貨物輸送の激減で余剰車が大量に発生した機関車は、国鉄清算事業団預かりとなって、よほどのことが無い限り、廃車解体の運命を辿ることになります。民営化後、息を吹き返した貨物輸送の対応で、車籍を復活させた機関車もありましたが、1号機はそのご相伴に預かること無く、民営化直前の昭和62年3月に廃車となります。ただ、トップナンバーという強みでしょうか、解体はされずにJR貨物の吹田機関区に保管されていました。後に宮原機関区に保管の場所が移されますが、イベントの際にはその元気な姿 (?) は見ることが出来ました。そして大阪交通科学博物館と梅小路蒸気機関車館の統合による新しい鉄道博物館が京都に開設されるにあたって、その保存・展示車両の候補に挙がり、後に正式に収蔵されることが決定しました。
冒頭、申したように、EF65と聞けば、大概の方々がブルートレイン牽引機としてのEF65を連想するのは致し方がありません。私も実際、そうですから。でも、そういった華やかな列車の陰に隠れながらも、毎日の仕事が 「我が国の生活を運んでいる」 重要なものであるというプライドみたいなのがEF65を始めとする貨物牽引機には持ち合わせているんだなって、今になって実感しています。
【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
季刊 j train Vol.5 (イカロス出版社 刊)
ウィキペディア (国鉄EF60形電気機関車)