

今から約四半世紀ほど前、日本はかつてない好景気に沸きに沸いていました。日経平均株価も2万、3万超えは当たり前で、東京都内、山手線内の土地価格でアメリカ全土が買えるんじゃないかというほど、土地価格は高騰しました。1990年代以降に生まれた方々はピンと来ないかもしれませんが、1980年代の後半から1990年代の前半にかけて日本に降って湧いた好景気を 「バブル景気」 と言いまして、沸きに沸いたというよりも、皆、浮かれていました。日本人はカネで何でも手に入れられると思っていました。実際にそうしたし、打ち出の小槌の如く、降って湧いたように億単位のカネが転がり落ちている (・・・ように見える) んですからね。とにかく羽振りが良かった。ニューヨークの一等地にある建物を日本の企業が買収したかと思えば、ショービジネス界ではCMなどでシュワルツェネッガーやスタローン、エディ・マーフィなど外国の著名な俳優を惜しげもなく起用したり、スポーツ界に目を向けても “ジャパンマネー” が世界を席巻していました。特にF1に集る日本企業は引きも切らず、スポンサードだけでなく、終いには一個人がF1チームのオーナーになっちゃったりするケースもあって、このままこの好景気が続くんじゃないかって、誰もが信じて疑っていませんでした。ただ、皮肉なことに、その頃のF1が実は一番楽しい時代だったりするのですから、やっぱり 「バブル様々」 だったんですよね。
やがて 「ジャパンマネー」 は鉄道の世界にも侵攻 (侵略?) してきました。直接的には 「ジャパンマネー」 との因果関係は無いのですが、特にJRは、国鉄時代に抑制させられ続けていた新型車両の開発が一気に花が咲き、ここぞとばかりに新機軸を盛り込んだ新型車両を各社とも続々と登場させていました。そしてジョイフルトレインがこの頃、雨後の竹の子のように彼方此方に出没し、しかもそれが出せば大当たりで、好景気が手伝って軒並みオファーが殺到していました。
そして 「ジャパンマネー」 がもたらした最大の産物が画像の 「オリエント急行」 じゃないかと思います。
元々は、フジテレビ開局30周年を記念したイベントだったわけですが、ただ単にオリエント急行の車両を日本に持ってくるだけでなく、パリから東京まで営業列車として運行するという前代未聞の一大イベントでした。この企画には様々な意見等があって難航を極めましたが、JR東日本と日立製作所が賛同し、列車が走る国の協力も得て、1988年9月7日にパリ・リヨン駅を出発し、途中、ベルリンやモスクワなどを経由しますが、この頃のドイツは東西に分かれていた時代。いわゆる 「ベルリンの壁」 があった時代ですが、東西冷戦の真っ只中、社会主義国である東ドイツやソ連 (→ロシア) も協力的に列車の運行に携わったことは非常に大きいものがありました。
モスクワから中国へは、歌にもなって有名なシベリア鉄道を経由しました。北京から香港、そしてそこから船積みされて山口県の下松港に入港したのは10月6日のこと。つまり、パリから日本まで1ヶ月かかったことになります。さらに半月ほど、日本で走らせるための改造を行って、10月17日に広島駅からスタートしました。そして翌日、無事に東京駅に到着したオリエント急行は、 「世界で最も長い距離を走った列車」 ということで、ギネスブックにも掲載されることになりました。
東京到着後、すぐにパリに帰るのではなくて、しばらくの間、日本で走らせることになり、ツアー形式で日本一周の旅を実施します。9泊10日 (うち車中泊4) でお値段は1人888,000円でしたが、倍率は13倍でした。この他に、 「オリエント急行と北斗星」 ツアーや、 「オリエント急行と○○ (旅行の目的地) 」 といった、片道だけオリエント急行を使うツアーも盛り込まれまして、いずれも当時としては法外な価格となったのですが、中高年の夫婦を中心に人気があり、すぐに完売となりました。これも好景気の成せる業と言えるでしょうね。
パリ-東京間の運行では、各国の協力によって無事に運行が出来たというのは先程もお話ししましたが、パリを出発する際は、映画 「オリエント急行殺人事件」 に登場した230G形蒸機が先頭を飾り、西ドイツでは01形蒸機が重連で牽引し、中国では前進型蒸機が牽引するなど、各国で動態保存されている蒸気機関車が先頭を飾るシーンが散見されました。これに触発されたのか、プロジェクトメンバーだったJR東日本の山之内副社長 (当時) がテレビ中継のインタビューの際に 「日本でも蒸機がオリエント急行を牽引する」 といわば、 「爆弾発言」 をしたのです。 「その場の勢い」 といえばそうなんですが、元々、JR東日本ではD51 498の復元作業を行っていてましたけど、あくまでも別の目的でD51を復元していたので、復元に携わっていたスタッフは大慌て。遅れていた作業を取り戻すかのように、急ピッチで復元工事が進められ、11月22日に復元工事が完成すると、オリエント急行日本走行の最終ランナーとしてD51 498が上野駅から先頭に立ちました。しかも上野-大宮間はEF58 61との重連だったため、上野界隈は黒山のヲタだかりでパニック状態となり、よくあれで大事故が起きなかったなと別の意味で感心しちゃいました。
国内運行に際しては、様々な制約の中で日本の線路上を走らせるようにすべく、改造が行われました。
その中で最も重要だったのが台車。パリから東京の間、線路幅が違う国では、台車を交換する必要があります。鉄道模型ならHOゲージでもNゲージでも基本的には万国共通ですが、本物の鉄道はそうはいきません。特に日本はパリ-東京間では一番の狭軌になりますので、台車は旧形客車用のTR47を改造して履かせました。また、連結器は欧州ではバッファーを使用していますが、日本国内では交換はしませんでした。そのアダプター的役割を果たす客車を2両用意しました。1つはマニ50の片側をバッファーに交換して客車と互換性を持たせ、もう片方はそのまま並型自連で機関車と連結させていました。そしてもう1両が画像にも写っていますが、青と白のツートンカラーの客車。これは20系客車のナハネフ23を改造してオニ23としました。これも片方をバッファーとして客車に連結させていましたが、車内をハイビジョンシアターとしていました。
私は常々、 「お召し」 「さよなら」 「ジョイフルトレイン」 「甲種輸送」 といった、イベント的要素の強い列車は撮らないし、撮りにも行かないことを信条としておりまして (偶々、そこにいればそれは別) 、このオリエント急行も撮りには行きませんでした。大学 (短大) の仲間にも撮りに行った奴らがいましたけど、口にこそ出さないにしても気持ち的に 「バッカじゃないの」 と思っていました。主催したフジテレビも嫌いな部類に入ってましたからね。冒頭でもさらりとお伝えしたように、 「どうせ札束に物を言わせて持ってきたんだろ?」 というクチでした。
ただ、この 「オリエント急行効果」 というのは凄まじく、これに準えて 「トワイライトエクスプレス」 が登場したし、さらに二十数年経って登場した、 「ななつ星」 や 「瑞風」 、さらには「四季島」 といったクルーズトレインも、根底にはオリエント急行の影響を受けているものと考えます。でも、共通しているのは 「ターゲットが金持ち」 であること。我々貧乏人には到底縁の無い列車であるのは変わりないようです。だから、撮るしかないんでしょうけど、別にわざわざ撮りに行くほどの列車ではないというのが私の考えです。前述のように、 “その場にいれば” 話は別ですけど、基本的に興味はありません。
そうは言っても、バブル期に大学時代を過ごし、バブル期に会社に入社してる 「バブル就職世代」 の中の一人。また、この時期が 「人生全盛期」 であったのも事実。あの頃の物語なんて、皆、過去の遺物ですけど、良い時代ではありました。
【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.333 (交友社 刊)
ウィキペディア (バブル景気、ORIENT EXPRESS ’88)