
線路が真新しく、延長開業間もない頃の代々木上原駅を営団地下鉄 (→東京メトロ) 千代田線の6000系が出発しているところです。ここんところ、後継形式の16000系が勢力を伸ばし続けていまして、組織率も16000系が逆転しているという状況だそうですが、6000系は旧世代ながらもそのデザインに関しては一切の見劣りも無く、この車両がもたらすインパクトの凄さにあらためて驚かされます。
画像は6000系のトップナンバーである6001Fになりますが、これは元々は試作車で、量産試作車とも第二次試作車とも呼ばれています。
6000系といって外すことが出来ないのがサイリスタ・チョッパ制御。早い段階からこの未来の制御機器に着目していた営団地下鉄は、新たに建設していた9号線 (後の千代田線) 用の車両にこのサイリスタ・チョッパ制御を用いようと考えていました。そして1968年4月に、サイリスタ・チョッパ制御の実用化を図るため、3両編成の試作電車を製造しました。これがいわゆる 「6000系第一次試作車」 と呼ばれる車両で、新製後、東西線の深川検車区に配置されて深夜、日中問わず、東西線で試験運転を繰り返しました。このチョッパ制御の試験が思うような結果を得られなかったのか、問題が山積していたのかは定かではないのですが、開業には間に合わないということで、東西線用の5000系を9号線にも投入したのは有名な話。この6000系第一次試作車による試験は継続して行われることになりました。
1969年8月、この第一次試作車の結果を基に、6両編成の第二次試作車が製造されます。配置はやはり深川検車区で、東西線で試験運転を行いました。今だったら、 「東西線に新しい車両?」 ということで、彼方此方にヲタが出没するんでしょうけど、当時はそんな風潮など見せず、長閑な試験だったのが想像されます。
当時の第二次試作車は
←西船橋 東陽町→
6011-6012-6013-6014-6015-6016
という車号でした。
試験は基本的に東陽町 (南砂町) -西船橋間の地上区間で行われまして、過密ダイヤが売り物の現在の東西線では無理ですけど、当時は10~20分に1本程度ののんびりとしたダイヤだったので、日中の試験も普通に出来ました。また、この頃は西葛西駅、南行徳駅、妙典駅はありませんでしたので、高速試験 (・・といっても、150~200km/hを出す試験では無いのは言うまでもありませんね) も行えたのでしょう。
第一次試作車との大きな違いは、その製作工法。これによって、大幅な軽量化と工作の簡略化を図りました。台枠を薄肉化し、中梁、横梁の剛性を保つため、台枠の深さを145mmから200mmとして、さらに側梁の裾を下に約200mm伸ばしました。
台枠の側梁、側構の長桁、軒桁は大型の形材で、これらには外板や屋根板を張らず、剥き出しとしました。雨樋は肩の下にして、長桁と軒桁を組み合わせ、構造部材として利用しました。
第一次試作車の外観上の大きなチャームポイントだった防音用スカートは、それなりの効果はあったものの、保守に問題があり (つまり、検査ごとや修繕時等でその都度取り外さなくてはならない) 、早々に撤去してしまいました。第二次試作車では最初からスカートは取り付けられていません。しかし、側梁の裾がレール面上752mmまで伸びているので、床下機器の一部が隠れています。側窓は天地の寸法を800mmから750mmにしましたが、窓下の路線識別帯は幅を拡げて180mmとし、その位置を窓外枠の下、55mmとして全体のバランスをとりました。見付は犠牲を強いることになりますが、この結果、構体の重量は4,350kgで、第一次試作車と比べても640kgほど軽量化されました。その路線識別帯ですが、登場当初は第一次試作車同様に、前面はライト周りで終わっていましたが、量産化改造される際にすっきりと前面を囲うようにしました。一見すると判りづらいのですが、貫通扉 (非常用扉) に据えられている 「S」 マークも第一次試作車と第二次試作車とでは大きさが違いますし、前面の車号取り付け位置も第二次試作車では非常用扉の真上に貼付されました (第一次試作車の車号は、非常用扉から少しずれた場所に貼付されていた) 。ワイパーは第一次試作車では1基でしたが、第二次試作車では2基装備となっています。
第一次試作車で取り付けられていた広告用照明は第二次試作車では取り付けられず、代わりに天井の蛍光灯を増設しました。座席の裾仕切りは、第一次試作車では600mmあった奥行きを浅くして、裾を直線としました。上広がりですが、尖った印象は薄らぎ、同時に貫通路もデザインを変えました。裾仕切りの面積が大きいほど、寝るのに好都合なんですけどね・・・。
補助電源は広告用照明を止めた関係で、容量が小さい18kVAの電動発電機を設置しました。空気圧縮機とともに6012、6014、6016に搭載しました。
第一次試作車、第二次試作車の試験結果や車体工法の見直しなどを経て、1971年からいよいよ量産が開始されるわけですが、第二次試作車もこの時、綾瀬検車区に異動になり、中間に4両を足して10両編成としました。
←代々木上原 綾瀬→
6101-6201-6301-6401-6501-6601-6701-6801-6901-6001(6011) (6012) (6013) (6014) (6015) (6016)
赤字で書かれているのが新製された中間車で、括弧内は第二次試作車時代の旧車号です。
第二次試作車を量産化改造するにあたっては、 「量産試作車」 と呼ばれるだけあって、最初からそれに準じた仕様で製作されていることから、それほど大規模な工事は行われず、新製された中間車も量産仕様ではなく、 「第二次試作仕様」 で製造されて、編成の統一化を図りました。量産車では6700形はモハになりますが、第二次試作車は先頭車が電動車 (クモハ) のため、新製された中間車はサハになります。このためか、6701にはパンタグラフが装備されています。空気圧縮機を1次量産車と同じレシプロ式 (C-2000型) に交換し、台車もFS368CからFS378に履き替えています。
量産車を製作するにあたって、一つの問題点が浮上しました。それが側梁の裾。第二次試作車同様に拡げた状態で製作すれば、計画があった乗り入れ先の小田急から 「建築限界に抵触する危険性がある」 とされて改善を求められたのです。そこで量産車ではレール面から870mmとして何とかクリア出来ました。このため、6001Fだけは小田急乗り入れ非対応車となりました。
霞ヶ関-代々木公園間の延長開業用に増備された二次形 (6014F~6019F) から取り付けられた前面の手摺りが1979年に6001Fにも取り付けられました。同時に側面方向幕の電動化も併せて行われました (それまでは準備工事だけ) 。画像を見ると、その手摺りが増設されていませんので、やはり代々木上原まで全通したばっかり (1978年) の頃の撮影と思われます。
1979年12月に綾瀬検車区への回送線が営業線に昇格し、いわゆる 「北綾瀬支線」 として開業するわけですが、その専用車両にあの第一次試作車が抜擢されました。東西線での試験運転終了後、綾瀬検車区に異動して、同検車区内での入換や有楽町線用7000系に搭載予定のAVFチョッパ制御やインバータ制御の実車試験など、マウス的な扱いを受けていたのですが、この北綾瀬支線開業用にようやく営業運転を行うことになりました。残念ながら、チョッパ制御やインバータ制御ではなくて、5000系と同じ抵抗制御になりましたが、車号は6001-6002-6003から6000-1-6000-2-6000-3というハイフン付きの車号に変更になりました。これがいわゆる 「ハイフン車」 誕生の瞬間なんですが、実際にいつハイフン付き車号になったのかまでは不明です。綾瀬検車区転属時に改番されたのか、北綾瀬支線用に改造された際に改番されたのかも定かではないのですが、一般的には綾瀬転属時 (1970年) に改番された説が濃厚です。
第二次試作車の6001Fも年を追うごとにあらゆる部分で近代化改造を実施します。
1987年には冷房化、1996年 (~1998年) には側窓の一段下降窓化がその主たる近代化改造ですが、中でも一番大きな改造が心臓部とも言える制御装置の交換です。1998年度にVVVFインバータ制御化を実施しまして、その関係でチャームポイントだった広い裾は切り欠かれました。これで裾が短くなったので、保安装置さえ付ければ小田急への乗り入れも実現出来たのですが、結局は最後まで小田急には乗り入れることはありませんでした。
こうして最盛期にはハイフン車含めて353両が活躍した6000系ですが、後継と目された06系が僅か1本のみの製造に留まり、しばらくは安泰の日々が続きました。しかし、ホントの後継車である16000系が登場すると、その置き換えペースはJRのごとく急ピッチで、冒頭お伝えしたように、あれよあれよという間に組織率は逆転、2010年度から6000系は置き換わるようにして廃車の運命を辿ることになります。解体されたものもあれば、海を渡ってインドネシアに渡るものと、その去就は様々ですが、6000系最新鋭の6035Fも早々に廃車となり、この結果、発祥でもあり、6000系のアイデンティティであった回生ブレーキ付きサイリスタ・チョッパ制御は姿を消しました。
第一次試作車として製造されたハイフン車は、東西線から05系が転属したのを機に、最後まで営業運転に就いていた5000系とともに引退しました。そして第二次試作車の6001Fは、今年度になって引退勧告を受け、惜しまれつつ千代田線から撤退しました。このまま保存して欲しかったのですが、幸か不幸か、他の仲間と一緒にインドネシアへと旅立ちました。なお、ハイフン車は新木場CRに残っており、さらに車籍も消えないままでいることから、保存になるのか新木場CRでの入換用に使われるのか、注目されます。
カルダン駆動、インバータ制御などとともに、鉄道車両の走り装置としては革命的だったサイリスタ・チョッパ制御。その元祖は言うまでもなく営団6000系です (あくまでも “本格採用” という意味で) 。また、車体デザインも先進技術をふんだんに採り入れ、とても昭和40年代に登場した車両とは思えない、当時の水準から考えればまさに “未来の電車” でした。そんな電車がまもなく世代交代を迎えて後進に道を譲る日が刻々と近づいていますが、賛辞をもって送り出してやりたいものです。
【画像提供】
ヤ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.926 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.365 (交友社 刊)
営団地下鉄車両写真集 (交通新聞社 刊)