
実は・・・EF65PFは地味な機関車なんです。
皆さんが持つEF65PFのイメージは、ヘッドマークも誇らしげに、夜の東海道・山陽路をひた走ったブルートレイン牽引機というのが定着しているかと思いますけど、それはほんの一握りで、東京機関区に配置された21両 (と、台検時に使用される代車に宛がわれる下関運転所の4両) のみがその檜舞台に立てたのでした。
「嗚呼・・国鉄時代」 のNo.405でもお伝えしたように、昭和50年代に巻き起こった 「ブルートレインブーム」 は常に東京駅を発着する九州行きの列車が中心となっていました。そして昭和40年から13年間にわたって、東京-下関間往復2,200kmを時速110キロで毎晩毎夜、青い客車の先頭に立って走り続けていたEF65 500番台がその主役になっていたわけですが、長年の酷使によって、EF65Pは疲れ切っていました。その代替用でEF65PFが新製されたというのは皆さんもよくご存じのことかと思います。
昭和52年度第一次債務で27両が新製され、1092~1095号機が下関運転所に、1096~1116号機が東京機関区に配置されました。なお、1117号機と1118号機は貨物用で新鶴見機関区に配置されています。前述のように、下関の4両は東京の機関車が台検で下関に検査入場した際に、その代替として使われるもので、ブルートレインの牽引が無い場合は、臨時列車や貨物列車の運用にも就いたとされています。
何も、ブルートレインを牽引したPFはこの25両だけでなく、初期形や最終増備形も牽引はしています。しかし、東京機関区の21両に比べると華やかさは欠け、人気も今ひとつでした。60.3以降のヘッドマーク復活によって、少しは (不人気さが) 回復したようにも思いますが、東京機関区のPFはブルートレイン牽引以外の運用は無いというのも、そのエリートさを如実に物語っている事案と言えましょうか。
東京駅発着のブルートレインは、50.3改正から60.3改正までの10年間、唯一、ヘッドマークの取り付けを維持し続けたという点と、牽引される客車もA個室寝台や食堂車の連結というホスピタリティの高い列車が数多運転されていたという点で、ブームの牽引車的役割を担っていました。 「あかつき」 「明星」 「彗星」 といった関西ブルトレや、 「あけぼの」 「北星」 といった東北方面へのブルートレインは、一部でA寝台車は連結されていたものの、大半がB寝台のみのモノクラス編成で、ヘッドマークも付かないことから、ワンランクもツーランクも格下だった感は否めず、東海道ブルトレの影に隠れた脇役的なポジションは揺るぎませんでした。
芸能の世界やスポーツの世界は、競争が厳しく、スターになれる人は極々限られた者だけになるのは皆さんもご存じのことかと思いますが、さらに “スーパースター” となると、その確立はもっと低くなります。それだけその世界で大輪の花を咲かせて、スポットライトを浴びるというのは難しいことだということです。
鉄道の世界でも同じことが言えますが、数多ある鉄道車両の中で人気を獲得するというのは、なかなか難しいのかなという気がします。そういう意味で、東京機関区のEF65 500番台やその後を継いだEF65 1000番台はまさに大スターそのものだったわけです。ただ、人気が頂点に達したのは、やはりSLブームが去り、14系や24系、24系25形が出揃った昭和50年以降になり、昭和40年代はそれほど騒がれてはいなかったということです。また、東海道は東海道でも、九州へ行かない 「出雲」 や 「瀬戸」 、そしてEF65が牽かない 「いなば (後の出雲) ・紀伊」 はその人気に肖れませんでした。
総勢139両が製造されたEF65PFですが、ブームの中心にあって、常にカメラの放列を浴びていたのは、前述のように25両のみ。2割弱という布陣です。その他のEF65PFは基本的には貨物列車の牽引がメインで、列車を牽引してやって来ても誰ぁ~れも振り向きません。
昭和55年に老朽化したEF58を置き換える目的でEF65PFが増備されて、下関運転所と宮原機関区に配置されました。下関に配置された10両 (1119~1128号機) と宮原機関区に配置された11両 (1129~1139号機) は基本的に関西ブルトレ牽引に特化した運用が組まれていましたが (この他に 「銀河」 や 「出雲・紀伊」 、そして九州方面への夜行急行の牽引も加わる) 、これも先程お伝えしたように、ヘッドマークは無く、何の列車かは方向幕を見ないと、あるいは客車のテールマークを見ないと判らないという始末。一時代を築くことはありませんでした。
一方、宇都宮運転所には多数の初期形PF配置されており、 「あけぼの (53.10改正以降は 「北星」 も) 」 の牽引も含まれていましたが、あくまでもブルートレイン牽引は “副業” のようなもので、メインは貨物列車の牽引でした。登場当初は 「EF65 500番台P形とF形のウィークポイントを改善し、長所を併せ持ったような機関車」 とのキャッチフレーズ (・・?) のまま、東北本線や上越線を中心に、10000系高速貨車を重連総括して牽引するという貨物のエリート運用をこなしていた時期もありましたが、後に単機運用となってしまい、PFの本来のポジションである “地味な機関車” に甘んじることになります。なお、初期形の一部は広島機関区や下関運転所が最初の配置区であったのもあり、イレギュラー的にブルートレインを牽引したこともありましたが (500番台の台検代車でPFが東海道ブルトレを牽引したこともある) 、昭和47年10月の改正で、山陽本線の平行ダイヤが実施されて、これに伴ってEF58でもブルートレインの牽引が可能になったことから、関西ブルトレの牽引がEF58に置き換わり、加えてEF66の増備も手伝って、PFの居場所が無くなり、揃って宇都宮運転所に転属していることを付記しておきます。
さて、前振りがひつこく長くなってしまいましたが、ようやくここで新鶴見のPFが登場します。撮影もおそらく新鶴見機関区で撮られたものでしょう。
宇都宮の初期形にしても、宮原や下関の最終増備形にしても、寝台特急や高速貨物の牽引という檜舞台が与えられていました。しかし、新鶴見のPFにはそんな運用は無く、来る日も来る日も黙々と貨物列車を牽引するという運用に従事していました。
時は昭和51年、首都圏を我が物顔で闊歩していた老トル機関車 (EF10、EF12、EF13、EF15) の老朽化が問題視され、置き換え用としてEF65PFの増備が決定します。こうして、昭和50年度第三次債務で1056~1068号機が製造されて新鶴見機関区に配置されました。
前の増備から4年が経っていたので、新たに製造されたPFは些かのマイナーチェンジが図られました。
具体的には・・・
① パンタグラフをPS22B型に変更② ナンバープレートをステンレスエッチング加工したものとし、取り付け方法をブロック式に変更。③ 屋上歩み板の取り付け高さを40mmほど上昇④ 武蔵野線での運用もあることから、長大トンネル対策として各機器の難燃化・不燃化を実施。⑤ 避雷器をLA15BからLA16Dに変更。⑥ 運転席の扇風機を新型にした。
特にPS22はEF65史上初の装着となって、外観上の大きな特徴となり、重厚さと精悍さを兼ね備えた機関車となりました。
次いで昭和51年度第一次債務で1069~1091号機が追加増備されてやはり新鶴見に配属されています。外観はその前の増備機と変化はありませんが、抵抗器を格子型抵抗体から山型抵抗体に変更され、速度計も機械式から電気式に変更されています。
このグループは山手貨物線、東北線、高崎線、常磐線 (田端操-隅田川) 、武蔵野線、東海道貨物線などでその姿を見ることが出来ましたが、誰も 「あっ、新形機関車だっ!」 と小躍りはしませんでした。逆に旧形電機を追いやったとして敵視される向きもあったりして、スター街道を歩むことは出来ませんでした。
この当時はまだ、貨物列車の趣味的対象は一部のコアなマニアにしか支持されず、大半の鉄道マニアは、それこそブルートレインやエル特急といった、 “時のスター” を追いかけるのに夢中で、 「貨物列車? だっせぇよ」 といった風潮がありました。そんなんだから、誰も見向きしないというのも頷けます。貨物列車同様に、旧形国電、旧形電機、地方のローカル線、事業用車両など、今では市民権を得ている各カテゴリーも、当時はゲテモノ扱いでした。
転機が訪れるのは60.3改正。
特急しか牽引しない東京機関区の21両 (と下関の4両) は、 「出雲」 の2往復と 「瀬戸」 を除いてEF66に牽引が置き換わり、 “エリート” としての存在は10年も満たない儚いものでした。前述のように、 「出雲」 と 「瀬戸」 の牽引は存続されますが、役不足は否めず、ブルートレイン人気も昭和50年代初頭の過熱ぶりではなくなりました。任を解かれたPFは、程なくして合理化に伴う現業機関の統廃合で廃止された東京機関区を後にして、新鶴見機関区に籍を置くことになります。これも一時期的な措置で、すぐに田端運転所に転属となります。ブルートレイン牽引の他に、その頃雨後の竹の子のように増殖し始めていたジョイフルトレインの牽引にもあたるようになりまして、ブルートレインとはまた違った華やかさが加わりました。これも 「元、東京機関区所属」 というプライドか、はたまた “看板” の成せる業かといった感じに映りました。
そんな新鶴見の生え抜きPFはその後も変化は無く民営化を迎えますが、目立たぬ中で大化けした機関車がありました。それが1118号機。
1118号機は、東京区や下関所の25両とともに新製された機関車ですが、エリートコースを歩む25両の仲間には入れず、1117号機とともに新鶴見に配属となって貨物列車の牽引を担うことになります。 「明暗を分ける」 とはまさにこの事。
以来、新鶴見を離れることなく、貨物列車の先頭に立ち続けた1118号機に転機が訪れるのが平成9年のことでした。
民営化直前の昭和62年に、14系と12系を改造したジョイフルトレイン 「スーパーエクスプレスレインボー」 の牽引機にEF65 1019号機とEF81 95号機が抜擢されて、真っ赤なボディに側面にはそれぞれの機関車の形式をレタリングした大胆な塗装で、客車同様、注目を集めましたが、1019号機は老朽化のために平成9年に廃車となります。その代替として 「スーパーエクスプレスレインボー」 の牽引機に1118号機が指名されて、1019号機と同じ塗装パターンで登場しました。なお、1118号機はJR貨物ではなくて、JR東日本に継承されていました。だから実現したのかもしれません。
塗装変更後の大きな仕事として、客車最終日の寝台特急 「瀬戸」 の牽引に起用され、国鉄時代には経験しなかったブルートレイン牽引を初めて経験することになります。1118号機は新鶴見所属機としては、一番の出世頭となり (1059号機や1065号機も著名な機関車になりましたけど) 、1118号機が動けば、各地でカメラの放列を浴びることになります。
1118号機は昨年、惜しくも廃車されてしまいました。
JR貨物に継承されたPFは、ある程度年齢を重ねた段階で、更新工事を行いますが、これを機に、車体の外板塗色を青とクリームの 「国鉄色」 から、順次、JR貨物色に塗り替えられていきました。また、エリートだった元、東京機関区配置のPFも一部がJR貨物に転籍して、JR貨物色に塗り替えられています。そして、コキ250000形 (コキ50000形を100km/h走行出来るように、ブレーキ周りを改造した形式) 牽引のためにブレーキ管減圧促進改造が施された車両があり、該当車両はナンバーを赤くしました。それ以外の機関車はナンバーを青くして識別を図るようになり、徐々に形態がバラバラになっていきました。極めつけは、JR貨物所属機の最高速度を100km/hに向上させ、それに対する改造工事を施工することになり、旅客会社のPFと区分けする必要性から、番号を原番号にプラス2000を足して、2000番台としたことでしょうか。同様の改造はEF81にも行われ、こちらは原番号プラス600の数字が与えられています。
他のサイトを見ると、画像の1073号機は赤プレートになっていましたので、ブレーキ減圧促進改造が施されている機関車になります。また、2000番台化も実施されている様子でしたが、平成27年10月現在、2073号機が現存機に含まれておらず、廃車されていると思われます。しかし、いつ赤ナンバー化されたのか、いつ2000番台化されたのか、いつ廃車になったのかまでは確認出来ませんでした。
ひっそりと登場して、ひっそりと黙々と貨物列車を牽引した日々を過ごし、そしてひっそりと消えていった1073号機。
終生、地味のままでしたが、 「縁の下の力持ち」 であったことも確かでした。
【画像提供】
は様
【参考文献・引用】
レイルマガジン No.389 (ネコ・パブリッシング社 刊)
季刊 j train Vol.24 (イカロス出版社 刊)