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以前、 「大化けした都会のローカル線」 ということで、阪神西大阪線 (→阪神なんば線) を取り上げたことがありましたが、今回はその第二弾で東京の京浜急行空港線にスポットライトを当てます。この路線も大化けした路線ですよねぇ~。

皆さんの思い描いている京急空港線は、東京国際空港へのアクセスとして重要な役割を担っていて、エアポート快特やエアポート急行などがひっきりなしに走っているのをイメージされているかと思いますが、四半世紀前までは、空港線という名はついているものの、空港へのアクセス機能は殆どありませんでした。列車も画像のような3両編成が京急蒲田 (当時は京浜蒲田) と羽田空港間を往復していました。羽田空港駅も空港のコアな部分までは到達しておらず、現在の大田区羽田5丁目の海老取川の手前に羽田空港駅がありました。ターミナルへはここからシャトルバス・・といっては聞こえが良いですが、送迎バスに毛が生えた程度のショボいバス (確か、いすゞジャーニーを使っていた記憶あり) が駅と空港ターミナルを往復していました。

それから、今の空港線は糀谷-京急蒲田間が高架になり、京急蒲田駅も二層構造の大ターミナルになりましたが、当時は地平駅で空港線は第一京浜側にホームがあり、駅を出発した列車は半径60mという急カーブで第一京浜を横切っていました (800形投入時に80mへと拡大) 。そして、糀谷-大鳥居間も今は地下になって、大鳥居駅も地下駅になっていますが、当時は大鳥居駅も地上にあって、空港線は産業道路と環八通りの交差点付近を踏切で通過していました。そのため、環八通りと産業道路が交わる 「大鳥居」 交差点付近は泣く子も黙る大渋滞のメッカとして知られていました。私も1~2度、この地上駅時代の大鳥居駅は行ったことがありますが、ホームの幅が狭い、如何にも下町のローカル線だなという印象を受けました。
「泣く子も黙る」 といえば、第一京浜と環八通りの交差点も酷かったですよね。京急本線の踏切もそうですが、空港線の踏切も絡まって、蒲田は車で雁字搦めにされていました。

画像は虫眼鏡で見ないと何処の駅だか判らないのですが、穴守稲荷と書いてあります。ということは、穴守稲荷駅なんでしょうね。高架駅になったり地下駅になったりしている空港線で、唯一地上駅として残った穴守稲荷駅は、下町の雰囲気が今も色濃く残っています。因みに当時の羽田空港駅は空港側に3~400mほど移して地下駅になり、現在は天空橋駅となっています。

羽田は元々、漁師町で、ここで獲れる東京湾の海産物は 「江戸前」 としてブランド化されて特に重宝されていました。それは今も昔も変わっていないみたいです。
空港線が開業したのは1902年のことですが、開業時は穴守線 (または羽田支線) と呼ばれていました。勿論、当時は羽田空港などなく、どちらかと言えば、沿線にある穴守稲荷への参拝客の輸送や、夏季における羽田の海水浴場への輸送などが主な目的でした。シーズンになると、本線からの直通列車も運転されていました。当時の穴守駅は現在の空港西端にあって、戦前はそこまで線路が延びていました。
1931年にこの羽田に飛行場が開設されると、飛行場へのアクセスも担うようになりました。
終戦後、羽田空港はGHQに接収されて、空港線は穴守-羽田間が事実上の廃止となりました。1946年には省線 (→国鉄→JR) から貨物列車を走らせるため、単線になりました (見た目は複線だが、京急と省線でそれぞれ単線を分けて使う 「単線並列」 を意味していると思われます) 。今後計画されている 「蒲蒲線」 の原型になるであろう、京急と省線の連絡線が終戦間もなく存在したことになります。

GHQから羽田空港が返還されてアクセスが復帰するはずだったのですが、京急は 「本線の輸送力増強が先」 として、運輸省からの打診を断ったことから、運輸省がへそを曲げ、空港アクセスは1964年に開業した東京モノレールが担うことになりました。1972年になって本腰を入れて空港ターミナルへの乗り入れを検討しますが、時既に遅しで、運輸省も東京都も京急の乗り入れに関しては首を縦に振りませんでした。

こうして、時代に取り残される形になってしまった京急空港線。京浜蒲田駅におけるカーブ半径とホームの有効長の関係から、本線からの直通列車は運転されず、充当される車両も大師線同様に、旧い車両ばかりでした。冷房車の投入も1986年とかなり遅く、このまま廃線になってしまうんじゃないかとさえ言われた時期もありました。

転機が訪れるのは、1990年代に入ってから。
羽田空港の沖合展開事業が行われている中で、空港ターミナルを移設する工事が進められていました。事業が完成すると、東京モノレールだけでは輸送力に対応出来ないことから、京急に白羽の矢が立ち、ようやく空港ターミナルへの乗り入れが認められました。こうして1993年に天空橋駅 (当時は羽田駅) が開業して、都心から都営地下鉄浅草線を介して直通列車が乗り入れるようになりました。さらに1998年には空港ターミナルの下まで線路が延びて羽田空港駅が開業しました。後々の大躍進は皆さんも知るところかと思います。

画像の電車は400形です。昭和の京急はこういう車両が多く残されていました。
戦前から戦後にかけて製造された複数の系列の車両を一つに纏めたのが400形で、1965年に登場しました。登場当初は古ぼけた感が強かったのですが、1970年代に入って更新工事が行われ、当時の最新鋭車両である1000形と遜色ない仕様になりました。そんなこともあって、1970年代初頭までは普通から快特まで幅広く使われたり、朝のラッシュ時には500形と組んで10両編成で運転されたりしました。
1970年代後半になると、本線での運用は700形や800形に置き換えられて、川崎以西での運用や空港線での運用がメインとなり、その空港線の運用も1986年に500形に置き換わって撤退しました。
先程、 「昭和の京急はこういう車両が多くいた・・」 なぁ~んてことをお伝えしましたが、湘南風二枚窓の車両は前だけでは判別が付きにくかったです。だから、側面の扉数で判別をしていました。2扉なら快特用600形、3扉なら400形、4扉なら500形といった具合に。でも、皆さんも同じ見分け方をしていたんですよね。

今後、蒲蒲線プロジェクトが本格始動すると、どんな風に空港線は化けるのでしょうね・・・。

【画像提供】
ヤ様
【参考文献・引用】
日本鉄道旅行地図帳 第4号 「関東2」 (新潮社 刊)
ウィキペディア (京急空港線、東京国際空港、京急400形)